- 発行日 :
- 自治体名 : 千葉県南房総市
- 広報紙名 : 広報みなみぼうそう 2025年7月号
■市指定史跡
『三浦道寸(みうらどうすん)の墓(はか)』
所在地/和田町中三原(なかみはら)202(和田地区)
所有者/正文寺(しょうぶんじ)(日蓮宗)
□正木氏の祖?三浦氏最後の当主の墓
中三原の正文寺は、戦国時代に里見(さとみ)氏の重臣で勝浦城主(かつうらじょうしゅ)の正木頼忠(まさきよりただ)(1551~1622)が、父の時忠(ときただ)(1521~1576)を供養するために再建した寺院です。
本堂から約300m南西の小さな山にある墓地(通称:お塚山)には、時忠の墓と並んで、相模国(さがみのくに)(現在の神奈川県)の武将・三浦道寸(1451?~1516)の墓も立てられています。
道寸は、相模国の有力豪族であった三浦氏最後の当主として知られる人物です。戦国時代の前半に活躍しましたが、小田原の北条早雲(ほうじょうそううん)(伊勢宗瑞(いせそうずい)/1456?~1519)との戦いに敗れ、三浦半島南部の新井城(あらいじょう)で3年間籠城(ろうじょう)した末に、壮絶な最期を遂げたとされています。道寸自身が安房国(あわのくに)に拠点を置いた記録はありませんが、後世になると、新井城が落城する前に道寸の子(孫とも)が安房国へ脱出し、のちに正木氏の始祖になったという伝承が生まれました。
正文寺にあるこの墓は、江戸時代後期に正木氏の末裔(まつえい)らが立てた供養塔(くようとう)で、側面に文化(ぶんか)5年(1808)の年号が刻まれています。
現在では、道寸が生きていた時代よりも昔に、三浦氏の分流が房総に定着して正木氏になったとする説が有力で、この伝承は史実ではないとされていますが、正木氏の子孫たちは、悲劇の猛将(もうしょう)として名高い道寸を一族の誇りと考え、家祖(かそ)に位置付けたと思われます。
□公開
・常時公開。墓地参道は急傾斜なので、転倒注意。
・トイレなし。正文寺駐車場から徒歩5分。
*マナーを守って楽しく見学しましょう。
*見学する時は、所有者・管理者の指示に必ず従ってください。
問合せ:教育委員会生涯学習課
【電話】46-2963