文化 香取遺産(vol.226)

■名工鼠屋伝吉(ねずみやでんきち)の山車人形
鼠屋は17代続いた人形師の名門で、初代は豊前掾(ぶぜんのじょう)と称し、姓は竹岡で代々五兵衛(ごへえ)を名乗りました。江戸の天下祭りをはじめとして、関東各地の山車人形を数多く製作しています。その始まりは古く、徳川氏が江戸に入ったころからといいます。
鼠屋のことを記した文献に、寿々木雪山(すずきせつざん)の「近世名匠伝 七人形師 鼠屋伝吉同政吉」(『建築工芸叢誌(そうし)』、大正3年)があります。その中に佐原の山車人形にまつわる興味深いエピソードが記されています。要約すると「竹岡伝吉は、14代鼠屋五兵衛の実子で、幼少の頃から花沼政吉とともに父五兵衛に彫刻を学ぶ。安政5(1858)年に熊本の松本喜三郎が江戸で行った生人形の見世物を見て、伝吉と政吉は大いに刺激を受け、画を学び、老若男女を写生し、その骨格等を考え、自分の家の人形に応用して改良を図っていた。たまたま下総の佐原より山車人形の注文があったので、日頃研究するところを実地に施し、日本武尊(やまとたけるのみこと)と浦嶋の2基、各長さ一丈二尺(約3m60cm)の人形に初めて写生的製作を試み、大いに世間を驚かせたという。」と記しています。伝吉は父の跡を継いで鼠屋の15代となりますが、同書では「明治8(1875)年12月6日、不帰の客となる享年37歳」とも記しています。
改めて北横宿の日本武尊や下新町の浦嶋太郎を見ると、顔の筋肉の表現などがとても写実的に表現されていることが分かります。これら二体の製作年を伝える文書は発見されていないことから、伝吉が亡くなる明治8(1875)年の12月までには造られていた蓋然性(がいぜんせい)が高いといえます。
日本武尊と浦嶋太郎の山車人形は、早世した名工鼠屋伝吉が最晩年にその技術の粋を尽くして製作し、佐原に残した作品だったのです。
なお、鼠屋伝吉はその技量をアメリカで賞賛されており、生人形農夫婦の像はスミソニアン自然史博物館に今も保管されています。

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