文化 ちょうなん歴史夜話

■長南開拓記(77) ~上総国の誕生~
長く日本の各地域を分割する括りとして、「国」がありました。現代では、都道府県名の定着以前に日本の各地域を呼び表した名称として、「旧国名」などと言いますが、これらは古代に定められた「令制国」に由来するものです。令制国は古代の地方行政単位であり、大化元年(六四五)から大宝律令制定(七〇一)までの間に、段階的に成立した可能性が高いと考えられています。
現在、千葉県となっている地域には、旧国名として「上総国」「下総国」「安房国」があり、長南町は上総国の領域内にあります。また、安房国は養老二年(七一八)に上総国から分かれた国(その後、一旦上総に戻され、七五七年に再分国)であり、上総国の北境は、現在の市原市―千葉市緑区の土気地区―大網白里市―東金市―山武市―芝山町―横芝光町の旧横芝町に相当するので、発足当初の上総国は房総半島の大半を占める領域を持っていました。上総国の史料上の初見は、藤原京跡(奈良県橿原市・明日香村)の発掘調査で見つかった木簡で、「己亥年十月上捄国阿波評松里」の記載があります。己亥年は六九九年であり、大宝律令制定の二年前に、すでに上捄国(上総国)が令制国として成立し、初期には「総」ではなく、「捄」の字が宛てられていたことがわかります。なお、「阿波評」は「安房郡」の意味で、分国前の安房地方を指しています。
令制国の長は中央政府から任期付きで派遣される国司であり、それまで地方を統治していた国造などの地方豪族は、令制国の下にある「郡」を統治する郡司の役職を得ることになります。国司は任国の国府に詰め、そこで執務にあたります。下総国府の位置については、ほぼ特定されており(市川市国府台)、中心となる政庁の位置は未だ不明ながら、国府に関連するとみられる様々な遺構が発掘調査で見つかっています。一方、上総国府は市原市国分寺台周辺が、所在地として有力視されていますが、主な候補地だけでも「村上地区」、「郡本地区」、「市原地区」、「能満地区」など複数あり、それぞれ発掘調査も行われていますが、未だに絞りきれていない状況です。

※地図は本紙をご確認ください
関東地方の国府跡所在地(推定含む)。
◎確定・〇ほぼ確定・△未確定。
上総・下総以外は、上野国府→前橋市、下野国府→栃木市、常陸国府→石岡市、武蔵国府→府中市、相模国府→平塚市、安房国府→南房総市(旧三芳村)。

(町資料館 風間俊人)