くらし 戦後80年 戦争の記憶から平和を考える(1)
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- 発行日 :
- 自治体名 : 神奈川県逗子市
- 広報紙名 : 広報ずし 2025年8月号
広島・長崎に原子爆弾が投下された8月6日、9日と終戦の日である8月15日には、平和を祈念するため黙とうをお願いします。
1945(昭和20)年に終戦を迎えてから、今年は80年にあたります。当時を知る人も高齢になり、話を聞ける機会は少なくなりました。戦争を経験した市民や専門家の話から当時何があったのかを知り、これからの平和について考えてみませんか。
■逗子での戦争の様子
逗子は、隣接する横須賀に旧帝国海軍の本拠地があったことで、その影響を大きく受けました。長年市内の小学校に勤務し、市の歴史を研究する両角さんに、当時の逗子の様子を聞きました。
●市内全域に軍事施設が
日中戦争が始まった1937(昭和12)年、海軍は池子地区の買収に着手。土地は弾薬庫として利用されました。細長い谷が山奥へ入り込む地形で、谷沿いにトンネル型の倉庫を造りやすかったためといわれています。1941(昭和16)年には土地の買収が隣接する久木地区へと拡大。最終的に横穴式トンネル倉庫16か所、地上倉庫69か所、計85か所の弾薬倉庫が建設されました。
一方、その土地に暮らしていた人々は立ち退きを余儀なくされました。終戦までに全69世帯が住み慣れた場所を追われ、中には移転先で再び土地を接収された人もいました。
日本への空襲が本格化すると、横須賀軍港を米軍の攻撃から守るため、逗子にも砲台が複数設置されました。小坪には沿岸を防備する洞窟砲台が、披露山や二子山にも戦闘機などを狙う高角砲台が造られます。上空を通過する敵機を撃ち落とすため、しばしば砲撃が行われました。
また空襲に備えて、軍事施設を安全な場所に移す工場疎開も始まります。横須賀にあった工場や倉庫も逗子の各地へ移転。池子弾薬庫は1945年から海軍航空技術廠(しょう)補給部池子工場となり、高角砲の推薬や特攻兵器「桜花」「海龍」の噴進器の装てん作業などが行われました。
●誰もが戦争のため働いた
逗子は軍の施設で働く人々の住まいとしても利用されました。1942(昭和17)年以降、桜山・沼間・久木には大人数が居住できる寄宿舎が置かれ、ここから逗子や横須賀にある工場などへと通いました。中には最大で約4,000人もの工員が暮らした宿舎もあったそうです。
1944(昭和19)年になると、学徒勤労令により中学生以上の勤労が義務に。逗子の学生に加えて県外から動員された学生も、海軍の軍事施設で働きました。沼間の寄宿舎には東北地方から動員された学生が暮らし、池子弾薬庫や横須賀の軍需工場で火薬の装てん作業などに従事。工場疎開のときには、機械を収める防空ごうを造るため土を運び出す重労働も行いました。
1945年には、学校の校舎が工場として使われることも。校庭は、食料増産を目的に一部を残して畑へ転用され、小学生も野菜を育てるなどしました。
●今も残る戦争の痕跡
工場疎開のため、動員学徒や朝鮮人労働者によって防空ごうが造られた。神武寺の表参道近くの防空ごうは、戦後になって神武寺トンネルへと整備された
■私の記憶
岡本 勇さん(池子)87歳
●忘れられない恐怖や不安、空腹に耐えた少年時代
当時は、神武寺駅近くに住んでいました。空襲警報が鳴り家の近くの防空ごうへ逃げる途中、上空にいた小型戦闘機に機銃掃射されたことが。とっさに木の下に逃げ込みましたが、目の前を木の葉や枝がパラパラと落ちてきた光景が忘れられません。また、とにかく食料がなく、近所の山や川で食べられるものを探しました。木の枝で作ったパチンコで鳥を仕留め、焼いて食べたこともあります。
戦後、池子弾薬庫で爆発があったときは、通学先の逗子小学校から葉山の神社に避難。「池子は壊滅状態」とうわさを聞き、不安な気持ちで夜を明かしました。今でもあのときの気持ちを思い出し、胸が締め付けられることがあります。
■私の記憶
須田 豊さん(沼間)92歳
●警報も出征も勤労学徒も、何もかも当たり前だった
終戦前は、毎晩のように空襲警報が鳴り、市内上空をB29が通過。迎撃のために日本軍が発射した砲弾が、機体に届かず消え落ちていく光景を何度も目にしました。また出征する近所の人も多く、五霊神社でたびたび行われた壮行会には私も見送りに行きました。
沼間にあった海軍の工員宿舎からは、毎朝、横須賀の軍需工場へ向かう人たちが列をなして歩いていました。終戦の年は中学校1年生で、現在の第一運動公園にあった海軍の自動車修理工場に学徒動員へ。終戦を告げるラジオ放送は工場で聞きました。すぐに理解できませんでしたが、大人が涙を流して聞いていたことを覚えています。
問い合わせ先:市民協働課