- 発行日 :
- 自治体名 : 長野県伊那市
- 広報紙名 : 市報いな 令和7年8月号
戦後80年。戦争を経験した方から話を聞く機会が少なくなり、風化する戦争の記憶をいかにして語り継いでいくか、また、掘り下げていくかが一層の課題です。
伊那市にはかつて「陸軍伊那飛行場」という巨大な飛行場がありました。その名残は、現在ものどかな住宅地の中で見ることができます。
飛行場について調査・研究を行う中で、戦後80年が経って初めて分かった事実や、つながった縁もありました。陸軍伊那飛行場について知ることで、今一度、平和の尊さや大切さを考えてみましょう。
■陸軍伊那飛行場とは
現在、住宅や水田、工業団地が広がる上の原区、上牧区、前原区周辺に陸軍伊那飛行場はありました。その敷地は南北約2・5km、東西約0・8kmと巨大なものでした。
▽熊谷(くまがや)飛行学校の分教所として
陸軍伊那飛行場が開所したのは1944年2月のこと。太平洋戦争が激しさを増し日本の劣勢が続くなか、国内最大級の飛行兵の訓練・養成機関であった熊谷飛行学校(埼玉県)の分教所として開かれました。飛行場の建設には、地元住民だけでなく、学生や朝鮮人も多く動員され、過酷な作業が課せられました。
▽少年航空兵などの訓練
飛行場では少年航空兵や見習士官などが3カ月の訓練を受けた後、戦地へ配備されました。中には特別攻撃隊員(特攻兵という決死の任務で戦場に向かう隊員)となって戦地へ飛び立ち、犠牲となった隊員もいました。当時は飛行訓練のため、赤い複葉飛行機(通称赤トンボ)や単葉飛行機(通称飛燕(ひえん))などが、終日伊那の空を飛び回ってたといいます。
日本軍の敗北が濃厚になるにつれ、各務ヶ原陸軍航空廠(がかみがはらりくぐんこうくうしょう)(岐阜県)伊那出張所に組織替えになり、特攻機への改装や、部品の生産を行ったほか、伊那町の防空を担いました。
その後も西箕輪に第二飛行場の建設が始まるなど、伊那の地はさまざまな分野で戦争への協力が強いられました。
終戦後、アメリカ軍によって陸軍伊那飛行場は廃止となりました。
■現在も残る戦争遺跡
▽高校生の調査がきっかけに
陸軍伊那飛行場は、存在そのものが軍事機密とされ、終戦後には記録文書が焼却処分されたこともあり、しばらくその存在を忘れ去られていました。しかし、地元の高校生たちがその歴史を掘り起こし、まとめたことをきっかけに、改めて伊那市の戦争の記憶として語られるようになりました。
▽遺構の保存と看板設置
上の原保育園の目の前には、かつての第二格納庫だった頑丈なコンクリート基礎が残され、説明の看板も設置されています。また近くにはレンガ作りの弾薬庫や自動車車庫の基礎も見ることができ、これらの戦争遺跡は、改めて平和の大切さを伝える遺産となっています。
■父が伊那の地にいたことを初めて知って
この春、陸軍伊那飛行場の所長を務めた米田主登(よねだかずと)さんの子、米田主美(かずみ)さんが伊那市を訪れました。
長年、生まれる前に亡くなった父の痕跡を探していた米田さん。昨年、高遠町歴史博物館の塚田館長から「お父さんが陸軍伊那飛行場の所長を務めていた資料が見つかった」という手紙が届き、初めて父が伊那にいたことを知りました。
塚田館長や伊那市誌編さん委員会副委員長の山口通之(やまぐちみちゆき)さんらの案内で、市内を回った米田さん。戦時下で苦労された伊那の方々への償(つぐな)い、亡くなった父を想い、陸軍伊那飛行場の跡地で献花された米田さんからのメッセージを紹介します。
※詳しくは本紙をご覧ください
◆戦争の記憶を風化させないために
▽黙とう
・広島平和記念日 8月6日(水)午前8時15分~
・長崎原爆の日 8月9日(土)午前11時2分~
・戦没者を追悼し平和を祈念する日 8月15日(金)正午~
▽原爆パネル展
原爆の悲惨さを知っていただくため、原爆に関するパネルを展示します。
期間:8月1日(金)~17日(日)
会場:伊那図書館1・2階
▽陸軍伊那飛行場とその時代2
西箕輪に計画されていた第二飛行場についての事柄など、新たに判明した事実を掘り起こした展示です。
期間:7月26(土)~12月26日(金)
会場:伊那市創造館1階
問合せ:企画政策課 企画政策係