- 発行日 :
- 自治体名 : 長野県伊那市
- 広報紙名 : 市報いな 令和7年9月号
■米(よね)さんのこと
黒百合(くろゆり)ヒュッテは、北八ヶ岳にある山小屋です。周囲はシラビソに囲まれて、クロユリの咲く開けた草原に建っています。天狗岳(てんぐだけ)の登山や‘にゅう’から白駒(しらこま)の池(いけ)への縦走の拠点です。この小屋の主(あるじ)は、米川正利(よねかわまさとし)さんで、みんなから「米さん」と呼ばれていました。
米さんとは、私が日本山岳会に入会した20数年ほど前からつき合いが始まりました。酒好き同志、信州と甲州の岳人でつくる「甲信山友会(こうしんさんゆうかい)」や「日本山岳会信濃支部」で、最後まで飲んでいるのは、だいたい米さんと私でした。松本駅前の飲み屋で酔いつぶれ、茅野市玉川(ちのしたまがわ)の自宅まで送ったことや、山小屋で一緒に飲み明かしたことは数知れません。
米さんの特技は、どんなに酔っぱらっていても、雪道で転ばないことでした。冬でも黒百合ヒュッテまでの登行は長靴で、アイゼンも着けず、ピッケルも持たず、登りも下りもフラフラしながらも決して転ばない不思議なバランスを持っていました。争い事が嫌いで、周囲の人を和ませ、いつもニコニコしてお酒を飲む、ともかく素敵な人でした。
実は、米さんはただの酔っぱらいではなく、天皇陛下徳仁(なるひと)さまが皇太子時代、最後の登山に天狗岳を案内しているのです。米さんは「皇太子殿下は、今までに何度か天狗岳にご案内する計画があったけれど、その都度事情があって登ることが叶(かな)わないでいる」、「天皇陛下になられたら登山はできないだろうから、今回が最後のチャンスになるだろう」と、自身の股関節の手術をしてまで案内できるよう準備をしていたのです。天皇陛下は、2017年9月20日(水)に黒百合ヒュッテにお泊りになり、翌21日(木)、米さんは陛下をご案内して天狗岳に登頂したのでした。天気は最高の秋晴れ、米さんの人なつっこい笑顔が浮かびます。
そんな米さんは、今年の2月25日(火)に亡くなりました。ここしばらく足の調子が悪いと聞いていたけれど、電話では「白鳥さん、歩くのが少し不自由だけれど、お酒は飲めるから遊びに来てよ。一人だと飲みにくいからさ」と話したのが最後となりました。米川正利さん享年84才。満面の笑みを人々に与え続け、楽しくも濃い人生を歩んできた米さんとはもう飲むことはできません。
伊那市長 白鳥孝