文化 未来に繋(つな)ぐ みのかもの70年 第12回
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- 発行日 :
- 自治体名 : 岐阜県美濃加茂市
- 広報紙名 : 広報minokamo 令和7年4月号
■消えゆく川との営み―渡船について―
かつて川は、私たちにとって、もっと身近な存在でした。河川を間近に望む人々は水に対して日々の豊かさを祈り、日常の一部として利用していました。しかし、生活スタイルや意識の変化によって、次第に人と川との結びつきは薄れていくこととなります。
古くから木曽川と飛騨川の合流点にあった船で対岸をつなぐ「渡し」の存在も、人と川との交わりが生み出す暮らしの形の一つでした。この渡しは、江戸時代には「川合の渡し」として栄え、明治期の廃止の危機も乗り越えて、そこを往来する人々に欠かせない交通路としてにぎわいをみせました。かつては米や炭などを運ぶ荷車や仕事に向かう行商人、時には花嫁の一行などで列をなし、渡し場付近には出店(でみせ)が軒を連ねるほどだったようです。特に3月の小山観音の祭礼日には着飾った百人以上の子ども連れがここを渡ったといいます。
最後の渡船の様子は、市がまとめた文書として残されています。この頃、渡船管理は県に委託されており、古井町川合・可児町(現可児市)川合・下米田町牧野の三つの渡船場を船で結んでいました。運賃は無料、乗船人数は最大12人で、曜日を問わず毎日運行していたようです。
しかし、自動車の普及や昭和46年の新青柳橋の完成などにより市民の移動手段が変化していく中で、日々の業務報告書には次第に利用者数欄の「0」が目立つようになります。
そして昭和51年、県道可児―金山線の新設に伴う全長二百メートルの川合大橋の完成が、渡船廃止の決定打となりました。
こうして地域の生活や文化が交わる結節点であった木曽川最後の渡船は、惜しまれつつも昭和51年12月末日をもって終了となりました。「夢のかけ橋」完成の喜びの陰には、消えゆく古くからの営みがあったのです。
◆[Pick Up]「渡船場の保存活用」
廃船によって役目を終えた古井町川合、下米田町小山の渡船場と渡船小屋は、まもなく市の管理となりました。地域の交流を長く支えてきた文化遺産として保存するため、市は県に対して譲渡を依頼したのです。川合渡船場に停泊していた二つの船体「今渡1号」「今渡2号」についても、一方は教育委員会に移管されますが、もう一方は河川防災に役立てたいという要望により地元住民に引き渡され、その役割を変えながら地域の安全を見守り続けたようです。
問合せ:みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアム
【電話】28-1110