- 発行日 :
- 自治体名 : 岐阜県可児市
- 広報紙名 : 広報かに 令和7年4月号
現在の兼山にあった美濃金山城(以下、「金山城」)は、「関ケ原の戦い」の際に城を崩し廃止されました。金山城を構成した天守、御殿、櫓(やぐら)、門などの建築物の多くは、木曽川の水運を活用し運ばれ、犬山城や城下町の建築・修繕に利用されたといわれています。この一連の出来事は「金山越し」として、兼山と犬山の両地域に伝わっています。
この時に、瑞泉寺(ずいせんじ)(犬山市)に移築されたと伝わる金山城の城門が、400年以上の時を経て、3月にふるさとである兼山の地に帰ってきました。
■金山城と森家の軌跡
金山城は、天文6年(1537年)に斎藤大納言正義(妙春)によって築かれたとされています。当時、この城は烏峰城(うほうじょう)と呼ばれていました。永禄8年(1565年)には、織田信長の家臣である森可成(もりよしなり)が東美濃を攻略するために入城し、慶長5年(1600年)まで森氏の※居城となりました。可成は、織田信長の躍進を支えた武将であり、その信頼も厚かったとされています。可成が亡くなった後は、二男の長可(ながよし)が城主となりました。長可はその勇猛さから鬼武蔵と恐れられ、多くの戦いで活躍しました。永禄8年に金山城で生まれた乱丸も、信長の下で多くを学んだ後、天正10年(1582年)に城主となりました。しかし、同年6月に「本能寺の変」で信長と共に討ち死にしました。
※領主が普段住んでいる城。
「本能寺の変」後、再び城主となった長可は、近隣の敵対勢力を討ち、1年足らずで東美濃地域を平定しました。その後、「小牧・長久手の戦い」では羽柴秀吉に味方し、戦いに参加しました。しかし、長久手の戦いの際、徳川勢の一斉射撃によって、27歳という若さで亡くなりました。
長可亡き後、森家で最後の金山城主となったのが忠政(ただまさ)です。忠政は、豊臣政権の主要な大名として活躍しました。現在の金山城跡は、忠政が城主だったときの※遺構が残されています。
※昔の建物などの跡。
■山城のまち可児市を楽しもう
市内には、10カ所の山城があります。これらは、私たちの先人たちが生きた証であり、地域の暮らしに深く根付いた貴重な歴史的財産です。その魅力の詰まった4本の動画があります。さまざまな視点から山城の魅力に触れてみませんか。
1 激熱!!山城deトーク
2 森家トーク笑(しょう)可児市山城相関図
3 可児の変久々利金山伝令
4 KANILOG山城のまちで女子旅編
※二次元コードは本紙をご覧ください。
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