文化 ふるさと再発見 Re:discovery Omihachiman 第72回

■古(いにしえ)写真館(9) 町なみにかかわる産業
本市の町なみを歩いていると、江戸時代の八幡商人の建物や、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した建物など多種多様な建物を見て楽しむことができます。今回はそんな町なみにかかわる産業についての古写真を紹介します。
本市の地元産業の一つに八幡瓦がありました。八幡瓦の起源は最も古いものになると、江戸時代の元禄期に京都の深草から八幡に移住して、本願寺八幡別院の瓦を葺(ふ)いた瓦師(かわらし)・寺本仁兵衛(てらもとにへえ)が記録に残っています。寺本家は多賀町で活動を行いますが、同町には他にも瓦工(がこう)がいたことが記録に残り、明治、大正、昭和と進むにつれて近代産業へと受け継がれていきます。多賀町以外にも八幡町には江戸時代に瓦屋増右衛門(かわらやますえもん)などの瓦工が記録に残り、市井金六(いちいきんろく)など、それ以外の地域の瓦師も存在していたことがわかっています。昭和30年の記録になりますが、市内には21か所の瓦所の記録が残っています。
写真の1枚目はそんな八幡瓦を焼いていたころの昭和の古写真になります。現在は、八幡瓦は製造されていませんが、窯や八幡瓦の資料はかわらミュージアムで見ることができます。
また、孫平治町を歩いていると、特徴的な煉瓦(れんが)の建物を見ることができます。これは、旧中川(なかがわ)煉瓦製造所の一部で、縄縫(なわぬい)工場です。明治時代、国内で急速に西洋化が進む中、当時の構造物に煉瓦は多く使用されて需要が高まっていました。そんな中で、明治16(1884)年に宇津呂村(現宇津呂町)で燃料商を営んでいた中川長九郎が湖東組を創立して煉瓦焼成を始め、明治40(1908)年頃には中川煉瓦工場と改称されました。大正9(1920)年前後には工場内にホフマン窯が建設され、昭和42年頃まで煉瓦を製造しました。
2枚目の写真は、撮影時期が不明ですが、煉瓦工場が稼働していたころの古写真になります。写真にある煉瓦工場の煙突の建物はホフマン窯と言い、ドイツ人技師・ホフマン(FriedrichHoffman)が考案した煉瓦窯です。その1つとして、旧中川煉瓦製造所(船木町)では現在でも当時の煉瓦の製造工程を追うことができます。
今回は町なみに関わる二つの産業の古写真を紹介しました。本市のかつての産業を思い浮かべながら、まちを散策してみてはいかがでしょうか。

1.八幡瓦の製造風景
2.中川煉瓦工場(中川宗孟さん提供)
※写真は本紙をご覧ください