文化 文化財めぐり 458

■亀岡市域の「兵農分離」
豊臣政権~徳川政権の時代、朝鮮出兵や関ケ原合戦、そして大阪の陣など大規模な戦が相次ぎました。これらの戦では豊臣秀吉や徳川家康などの動向に目が向きがちですが、この戦を支えたのは、ふだん田畑を耕作する大勢の農民でした。
秀吉による太閤検地(たいこうけんち)によって兵農分離が進み、武士と農民の身分が明確に区分されることとなった、というのが教科書的な説明です。しかし、これは当時の実情とは異なっているようです。
例えば先にも紹介した長澤氏は、季綱(すえつな)という人物が明智光秀に仕えて山崎合戦に従軍しますが、ここで大敗し、神路村に「蟄居」しました。しかし、近隣領主の仲介で秀吉に許され別院荘の「公役ヲ下知」するよう命じられ、いわば武士身分の末端として再興します。
その長男の忠綱(ただつな)は、武士としてさらに家を興そうと秀頼に仕えて関ケ原合戦に従軍しますが、ここで討ち死にします。残された次男重綱(しげつな)は、農民として過ごしていたところ前田玄以に見出され、別院荘の「仕置」を任されますが、玄以の死後は牢人となってしまいます。
このように長澤氏ら農村に住む人々は、あると時は農民、ある時は武士となっていたのであり、戦の続発が彼らをほんろうしていた様子がうかがえます。