文化 【特集】若宮八幡大神宮

蒲生と聖賢地区の氏神として、地域の人々から親しみを込めて“若宮さん”と呼ばれてきた若宮八幡大神宮(わかみやはちまんだいじんぐう)。
宮司の榊原孝和(さかきばらたかかず)さんに若宮八幡大神宮についてお話を伺いました

◆若宮八幡大神宮の歴史
◇祭神は仁徳天皇(にんとくてんのう)
古い家並みが残る旧街道筋から北へ少し入ると、こんもりとした鎮守の森があります。そこが、若宮八幡大神宮です。創建年月は不詳ですが、祭神の仁徳天皇の御遺徳をしのび、村民が神祠を創建したことが始まりといわれています。仁徳天皇の神名は、日本書紀にも登場する大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)。八幡様で知られている応神天皇(おうじんてんのう)の御子のため、八幡大神宮の前に“若宮”が付いています。
地域では、昔から“若宮さん”“蒲生の西向き八幡さん”と親しみをこめて呼ばれてきました。「一般的に神社は南向きが基本。しかし、ここは西に向いています。明確な理由は定かではありませんが、大阪に初めて都を開いた仁徳天皇を御祭神にお迎えしたことから、大阪の中心である西を向くことで、大阪の町の守護を願ったのでは」と、榊原さんから教えていただきました。

◇大坂冬の陣では徳川方の武将の陣営に
二度にわたる徳川家康の大坂城攻めの戦で、豊臣家は滅亡へとたどります。
慶長19(1614)年の大坂冬の陣では、徳川方の佐竹義宣(さたけよしのぶ)が境内に本陣を張り、戦勝祈願をしたといわれています。佐竹軍は、豊臣方の木村重成(きむらしげなり)と戦ったと「難波戦記」に記されています。
この戦では、心ない軍兵が御神木であった大木を切り倒して篝火の材料にします。戦後、佐竹家より戦勝の御礼参りも兼ね、贖罪のために千本もの矢が奉納されたと伝えられています。
「難波戦記に記述されていますが、ここが本陣になっていたのは大坂城が近いだけではなく、この辺りから鴫野・今福の一帯が主戦場となっていたからです」と、榊原さんは歴史的背景を話してくれました。

◇地域で守られてきた若宮八幡大神宮
幾度となく洪水の被害にあい、その度、再建されてきました。特に被害が大きかったのが、明治18(1885)年に大阪北部一帯を襲った未曾有の大洪水。佐竹家より奉納された矢をはじめ、貴重な資料も本殿と共に流出し、その後再建されましたが、昭和12(1937)年には地域の人々の多額の浄財が寄せられたことにより、面目を一新して現在の社殿が立てられました。そのためか、社殿の意匠は全てオリジナル。「意匠のところどころに蒲生の地名の由来といわれている蒲穂があります。ぜひ探してみてください」と、榊原さん。昔は蒲の穂が一面に茂っており、江戸時代の『五畿内産物図会』に蒲穂は蒲生村の名産と記されているほどでした。

◇これからも地域に寄り添う存在となるように
昔からクスノキやエノキなどの大樹に囲まれた“若宮さん”。中でもクスノキの大樹は、明治の洪水までは神木として人々に崇敬されていました。現在、境内のクスノキやムクノキなど11本の樹木が平成9(1997)年に大阪市保存樹林に指定されています。樹々に囲まれた境内は、心が和むという人もいます。「これからも多くの人に親しまれ、地域とともに次代へとつなげていきたいです」と、穏やかに話す榊原さん。地域の神社として、まちと人々を静かに見守ってくれています。

宮司 榊原孝和さん「気軽にお参りください!」

◆ここも注目ポイント!
◇社殿の意匠
社殿の意匠は、若宮八幡大神宮オリジナルのもの。
すばらしい職人技術を見てみよう!
・蟇股(かえるまた)(カエルが股を開いたようすに似ていることに由来)
中央に蒲穂が彫刻されています。
・錺金具(かざりかなぐ)
蒲穂が繊細に彫り刻まれています。
・釘隠し
八幡様が武神(弓矢八幡)として崇められていたため、矢の意匠になっています。

◇乾大神(いぬいのおおかみ)
西北の方角を司る神、金運の神様として昔から信仰を集めています。

◇祖霊社(それいしゃ)
境内の北東にある社。もとは昭和11(1936)年に始まった本殿造営の時、仮殿として建てられました。現在は戦争で亡くなられた地域の英霊や歴代の宮司・総代などが祀られています。

◇手水舎・鯛に乗った恵比寿像
井戸をふさいだ跡に、大きな鯛に乗り、扇を振っている小さな恵比寿像が安置されています。地元では“若宮さんのマスコット”として親しまれています。

◇豊受稲荷社(とようけいなりしゃ)
昔から地元地域を守る神様として、五穀豊穣や商売繁盛、家内安全、福徳招来を祈りに参拝者が訪れます。

若宮八幡大神宮
拝観時間:境内自由
社務所受付:8:00~17:00(年始は変更となります)
ところ:蒲生4-3-16

問合せ:【電話】6931-5927【FAX】6931-5922