文化 コラム「柏原の歴史」

「天空の町・雁多尾畑(かりんどおばた)」

江戸時代の国や村は、「検地」という土地調査を経て設定された課税基準額である「石高(こくだか)」によって、それぞれの生産高、経済力が把握されていました。1石は玄米150kgほどに相当し、1人の人間が1年間に食べるお米の量とされます。現在の柏原市域を調べてみると、江戸時代前期の段階で、柏原村が1419石余、国分村が1250石余、雁多尾畑村が1373石余で、この3村が群を抜いて高い石高を有していました。
大和川と奈良街道が交わり、水陸交通の要衝として栄えた柏原、国分とならんで、生駒山地の山あいにひろがる雁多尾畑がみえることが注目されます。河内・大和の〝国境の町〟で、河内最古の真宗寺院である光徳寺を中心に、古く戦国時代には、「寺内町」として繁栄していた可能性も考えられるでしょう。雁多尾畑の集落は「上町(かみちょう)」、「地下町(じげちょう)」(「下町(しもちょう)」とも)の2つからなり、すでに純農村(じゅんのうそん)となっていた江戸時代後期でも、1000人を超える人口を有していたことが史料から判明します。奈良県王寺町にある明神山(みょうじんやま)の展望台から北を眺めると、生駒の峰みねのなかにある雁多尾畑の集落が〝天空の町〟のように見え、改めてその立地が興味深く思われますし、集落のなかを歩けば、家いえを支える石垣が見事です。
山あり川あり人の暮らしあり、都会の近郊にあって、様ざまな風景を楽しめることは、柏原市の魅力と言えるでしょう。