文化 ふじいでら歴史紀行 219

【道明寺の歴史を語る 4 道明寺の戦い】
藤井寺市は、これまでの歴史の中で、幾度となくさまざまな出来事の舞台となってきました。その中には、歴史の転換点となる出来事、戦いなどもありました。道明寺周辺に関わる戦いでは、道明寺の戦いがよく知られています。
道明寺の戦いとは、1615(慶長20)年の大坂夏の陣の中で、道明寺周辺で起こった戦いのことです。
1600(慶長5)年の豊臣と徳川の戦い、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603(慶長8)年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されて江戸幕府を開きます。豊臣秀吉の子、秀頼(ひでより)は摂津国・河内国・和泉国の3国のみ領有が許されました。藤井寺市域の村々は、片桐且元(かたぎりかつもと)ら、秀頼の家臣が治めることになります。
ところが、1614(慶長19)年、家康は、京都にある豊臣家ゆかりの方広寺(ほうこうじ)の鐘の銘文に、「国家安康」「君臣豊楽」とあることを取り上げ、家康の名を分断し、豊臣を主君とする内容であると非難しました(方広寺鐘銘(しょうめい)事件)。この事件を一つのきっかけとして、同年、豊臣側と徳川側が戦う大坂冬の陣が始まります。
藤井寺市内でも戦いが行われたと伝えられる冬の陣は、いったん和議が成立して終わります。ですが、その後も豊臣と徳川の関係は改善せず、翌年に再び戦いが始まるのです(大坂夏の陣)。
夏の陣における道明寺の戦いでは道明寺や柏原市の小松山(こまつやま)が戦場の一つとなり、激戦があったと伝えられています。豊臣方の武将、後藤基次(又兵衛)、薄田隼人(すすきだはやと)、真田信繁(さなだのぶしげ)(幸村(ゆきむら))らが、徳川方の伊達政宗(だてまさむね)、その家臣である片倉重長(かたくらしげなが)らと激しく戦いました。戦いの中で、基次や隼人は亡くなります。その後も各地で戦いは続きましたが、やがて大坂城が落城し、秀頼は亡くなります。こうして大坂夏の陣は終わりを迎えるのです。
現在、近鉄道明寺駅前に、「大坂夏の陣 道明寺合戦記念碑」が建立されています。歴史の転換点の一つとなった道明寺の戦いをより多くの方々に知っていただくことを目的として、道明寺まちづくり協議会により建立されたものです。
また、今年2025(令和7)年は、道明寺の戦いから410年の節目の年にあたります。これを記念して、5月4日(日)には、「道明寺合戦まつり2025」が開催されます。武者行列やステージ、アトラクションブースなど多彩な催しを企画されており、多くの人が集まる盛大なイベントとなることでしょう。
このように、道明寺の戦いは、地域の歴史を語る大きな出来事の一つとして、人々に継承されているのです。
(文化財保護課 新開 義夫)