文化 歴史博物館特別展 豊臣期の尼崎と建部氏三代

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10月1日〜11月30日午前9時〜午後5時(最終入館は4時30分)
歴史博物館で、豊臣氏が政権を握っていた時代の尼崎や、尼崎を拠点に活動し尼崎藩主を務めた建部氏に関わるさまざまな資料を展示します。慶長9(1604)年に建部光重が奉行として吉野大橋を再建したことを示す銘文が刻まれている同橋の擬宝珠(ぎぼし)や洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)・尼崎本などから、これまであまり注目されてこなかった建部氏三代の功績や、当時の尼崎の激動の歴史を振り返ります。

■激動の時期の尼崎と建部氏との関わり
▽物語での尼崎と吉野(奈良)
平安時代末期、源義経は兄の頼朝と対立し西国に向けて大物から船出しますが、嵐で遭難し、わずかな人数で吉野に逃れて行ったと言われています。大物での出来事は後に能楽「船弁慶」で有名になり、また、没落した義経や平家の武将たちの悲劇を描いた人形浄瑠璃・歌舞伎の「義経千本桜」では、大物と吉野が舞台となる物語が展開され、それぞれ「碇(いかり)知盛」「吉野山」として独立してこの場面だけ上演される人気の芝居となりました。

▽吉野での寺社再建を進め、尼崎を治めた建部氏
義経の時代から約400年後の安土桃山時代、豊臣秀吉・秀頼は京都や各地の寺社の再建を盛んに進めました。吉野では秀吉が金峯山寺(きんぷせんじ)本堂蔵王堂(国宝)を、秀頼が吉野水分(みくまり)神社(重要文化財)や吉野の入り口に当たる吉野大橋を再建しますが、この秀頼による再建の実務を奉行として進めたのが、建部光重です。光重の父の寿得が本能寺の変の後に秀吉に仕えており、尼崎近辺の豊臣氏直轄領を管轄し、兵馬や兵粮(ひょうろう)の調達・搬送、太閤検地(たいこうけんち)や寺社造営の推進などに手腕を発揮しました。寿得に続いて子の光重、孫の政長が職務を引き継ぎ、大坂の陣での功績により政長が1万石を与えられましたが、2年後には播磨国(はりまのくに)林田(現在の姫路市)に領地替え(幕府の命令で領地を移ること)となり、戸田氏鉄が新たに尼崎藩主を務めました。尼崎藩主としてよく知られる氏鉄の前に、実は短期間ですが建部氏の存在があったのです。

問合せ:歴史博物館
【電話】6489-9801【FAX】6489-9800
休館日:月曜日(祝日の場合は火曜日)