- 発行日 :
- 自治体名 : 奈良県山添村
- 広報紙名 : 広報やまぞえ 令和7年9月号
場所:山添村切幡(きりはた)
年代:平安時代前期
説明:誕生釈迦仏はお釈迦さまが生まれたとき、7歩歩いて両手で天と地を指し「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)(意味:人は生まれながらにして尊く、比べることができない)」と唱えたという、誕生時のエピソードにもとづく像です。誕生仏は飛鳥時代から江戸時代まで途絶えることなく制作され、日本全国で親しまれてきた尊像です。国外から伝来する誕生仏はとても多く、それらは室町時代や江戸時代制作のものが大部分を占めています。
本像は、その像高・プロポーションなどから平安時代前期の制作と考えられ、非常に貴重なものです。像高8.7cm、銅製の仏像にメッキが施されています。
場所:山添村大字伏拝(ふしおがみ)
年代:奈良時代
説明:神野山のふもとにある「神野寺」は奈良時代天平(てんぴょう)12年(740年)聖武天皇(しょうむてんのう)の勅願(ちょくがん)により、僧行基(ぎょうき)によって建てられたといわれています。そのため、瓦に菊の紋が入っており嵯峨天皇(さがてんのう)の幼名「神野親王(かみのしんのう)」の二字を贈り「神野寺」になったという説もあります。神野寺の本尊は「薬師如来木坐像(やくしにょらいもくざぞう)」が、両脇に「日光菩薩木立像(にっこうぼさつもくりゅうぞう)」「月光菩薩木立像(げっこうぼさつもくりゅうぞう)」の「薬師如来三尊本尊(さんぞうほんぞん)」が、又、十二神将像(じゅうにしんしょうぞう)も安置されています。3度の火災によってより多くの資料が失われ、その歴史を詳しく知ることはできません。江戸時代中期の寛文3年(1663年)に作られた「神野山伊賀見村絵図(かんのやまいがみむらえず)」によると、本堂、薬師堂(やくしどう)、大明神(だいみょうじん)、弁財天(べんざいてん)が記されており、周辺地域に末寺を多く持つかなり大きなお寺だったと思われます。
また、最近になり、江戸時代末期の公家から神野寺檀家へ向けた文書(箕輪奥坊氏所蔵文書)が見つかりました。文書の内容から、神野寺は当時の公家から厚く支援されていたことがわかります。