くらし 戦後80年 100歳から12歳へのメッセージ(1)
- 1/37
- 次の記事
- 発行日 :
- 自治体名 : 奈良県吉野町
- 広報紙名 : 広報よしの 2025年8月号 No.1041
■戦後80年 元通信兵から最後の打電
◆“最後”の生き証人として -80年分の思い-
吉野小学校6年生の平和学習の一環として、香束在住の中義次さんが初年兵として戦時中に広島で体験した出来事を話しました。近年まで誰にも明かさなかった「ヒロシマのこと」。戦後80年となる今年、戦争を知る最後の世代となった中さんに話を聞きました。
◇原爆の記憶
「はっきりと憶えています。」そう力強く答えたのは、御年99歳の中義次さん。今からまさに80年前の昭和20年8月。広島での光景が今もしっかりと目に焼き付いていると、ひとつひとつ、当時の記憶を話してくれた。
―8月5日は深夜まで空襲警報が鳴り響いていた。翌6日、前日の空襲警報の影響で中さんたちはいつもより起床時刻が遅く、寝ていたので原爆投下の8時15分、その瞬間は見ていない。兵舎の2階で寝ていた中さんはすぐさま起き上がり、窓から外を見下ろすと、凄惨な光景が目に飛び込んできた。爆風により倒壊した木造兵舎の梁が突き刺さった兵隊、ガラスの破片が刺さってまるで石榴が爆ぜたように背中が割けている兵隊の姿だった。―
中さんは大正15年1月生まれ。昭和20年4月に入隊し、広島県の比治山にあった部隊で、無線通信兵として任務に就いた。比治山は爆心地から1.8km離れた、標高約70mほどの小高い丘で、爆心地側である西側は壊滅状態、東側は爆風が遮られ、影響が少なく火災も広がらなかった。中さんは、比較的頑丈な宿舎の建物内に居たことと寝台の位置が窓から離れていたことが幸いし、ほとんど無傷であった。しかし、同じ部屋の窓際の寝台で寝ていた仲間は、熱線により顔の出っ張った部分である鼻や唇にやけどを負っていた。
◇今なら残せる
長い間、誰にも話してこなかったことを、大勢の子どもたちの前で話すことになったきっかけは、柳在住の元吉野中学校長の中上睦男さんの提案だった。中上さんは中さんの息子義久さんと幼稚園からの幼なじみ。その縁で、昨年8月に中さん宅の初盆のお参りに出向いた際、中さんが原爆投下時の広島で兵隊として任務にあたっていたことを偶然知った。
また、この数年前、何気ない会話の中で、父の原爆体験を初めて聞いた息子の義久さんの衝撃は想像に難くない。こんなに元気なのに「まさかと思った。」
昭和20年9月、中さんは復員してすぐに元々勤めていた中竜門郵便局へ戻った。兄が戦死したこともあり、香束の自宅で父母など家族と一緒に暮らし、郵便局での勤務の傍ら畑仕事や山仕事に勤しんでいた。これまで原爆のことを周囲に語らなかったのは、終戦時、原爆については根拠のない噂があったことや、忙しい日常の中、余裕がなかったからだった。
息子義久さんは、何十年も家族にすら打ち明けてこなかった父の戦争の記憶を、一冊のノートに書き溜めている。この貴重な証言を次の世代へ残していきたいとの思いからだ。
中上さんの提案を当初は躊躇したものの、中さん親子は快く受け入れた。「当事者として若い世代へ伝えることができるのは今しかない。」そんなふうに思っていた。
◇子どもたちへ語り継ぐ
戦争体験者は年々減少し、特に戦時中に大人だった人の話はもうほとんど聞くことができなくなっている。さくら学園吉野小学校の修学旅行先は広島。これまでも現地で被爆体験を聞く機会を設けていたが、被爆一世は高齢化し、近年は被爆二世の方などが話し手になることが多いようだ。このような時代において、原爆の日の鮮明な記憶に基づく話を聴く機会は貴重である。
今年、6年生の児童は6月1日・2日の日程で広島へ赴き、平和公園を訪れた。毎月発行している校長室からのお便り「さくら日和」に山田校長はその日のことをこう記す。「建物が立ち並ぶ広島の街のなかから、突然現れる原爆ドーム。この場所だけ時が止まっているように子どもたちは感じたようでした。」
修学旅行の記憶が薄れないその月の25日、中さんという原爆体験者の話を聞くこととなる。自分たちの暮らすこの日本で、80年前に実際に起こっていた現実を知りたいという思いは、どの児童にもあったのだろう。生き証人の生の声を聴く表情は真剣そのものだった。中さんは当時の生々しい惨劇と苦悶を子どもたちにもわかるように、そしてショックを受けないように言葉を選んで話してくれた。
―原爆投下直後、兵舎の中から惨状を目の当たりにした中さんは翌日、衛生兵の助手として、負傷した兵隊の救助に現地へ出向くことになる。当時、原子爆弾という情報はまだ届いておらず、特殊爆弾という認識だった。
集合場所へ行く途中、学徒動員の女の子に助けてと声をかけられたが、軍の命令は絶対で、勝手な単独行動は許されない。断腸の思いで彼女を「見捨てた」。原爆の熱線で大やけどを負った人に対する処置は、すり傷等に使用する消毒液「赤チン」とガーゼを用いたものだった。当然助けることはできない。しばらくすると皮膚から蛆がわいてくる。絶命した人を、5・6人まとめて火葬していった。―
満足に手当てもできない惨めさ、自分の無力さを思い出し、話す中さんが声を震わす場面もあった。子どもたちの中にも涙を流す子がいた。中さんの気持ちを敏感に受け止めていたのだろう。あるいは広島の惨禍を、そのたくましい想像力で思い描き、涙があふれてしまったのかもしれない。また、子どもたちの感想は正直だ。話のすべては理解できなかったけれど、もし自分が被爆して大やけどを負い、蛆がわいたなら耐えられないだろうと。子どもたちは中さんの話す情景を自分に置き換え、しっかりと捉えていた。