文化 わたしのまちの文化財 vol.210 粉河寺梵鐘

粉河寺本堂の東、鐘楼に粉河寺梵鐘はあります。梵鐘は、元和4年(1618)の銘があり、高さ184cm、口径92・5cmを測ります。梵鐘の上部にあるイボ状の突起(乳(ち))は、「乳の間」に5段5列、4間+8カ所の計108個あり、形は整った宝珠形で室町時代末から江戸時代初期の形式をよく表し、全体に整った気品がみられます。同時期に藩主浅野幸長の命により鋳造された和歌山市萬精院に残る慶長19年(1614)の梵鐘とよく似ています。
この梵鐘は、天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めにより本堂など一山が焼失した際に、新たに鋳造したものです。中央の池の間の1区に、鋳造の趣旨が書かれ、他の池の間や縦帯などに寄進者の名が隙間なく刻まれています。趣旨には、粉河寺穀屋木食上人により発願され、藩主浅野家の一族「尾州春日井野郡浅野出羽守」の御用人「沖半助家次」が世話役として、本尊千手観音の天長地久と寺域全山の安全、寺院ならびに門前の繁盛、諸々の奉加する人々の現在・未来が栄えることを願うとともに浅野出羽守の武運長久を祈願し鋳造したことが刻まれています。撰文者には他にあまり例がない陰陽博士「安部算太夫時也」の名が見え、銘文を選ぶことや造鐘および日時について陰陽を占ったことが想像できます。
世話役としてこの鐘の鋳造に尽力した沖半助は、元和2年(1616)に、門前町の年寄らとともに商人を中心とした観音講設立のため寄進を行い、その帳面の筆頭に「銀子壱枚 浅野出羽守様 同弐拾目 沖半助」、続いてその他家臣や粉河寺の塔頭や門前町の家々、その他近在の住人や元粉河の住人まで名を連ねています。また、翌元和3年(1617)には、粉河産𡈽神社の神輿を飾る鳳凰の寄進も沖半助が世話役を務めています。
梵鐘が新鋳された翌年、紀州藩主浅野氏の一族および沖半助を主とした家臣は粉河復興の業績を残し、広島に転封されました。その後、徳川頼宣が紀州に入国してきます。現在、毎年8月15日の終戦記念日に、世界の平和を恒久に願い、この鐘が鳴らされます。戦国時代が終わり、太平の世のはじまりに、この鐘がつくられたようにいつの世も、人々の安寧への願いは変わりありません。

※2月号で紹介した「保田龍門」の中で、「和歌山大学芸術学部」とあったのは、正しくは「和歌山大学学芸学部」です。お詫びして訂正します。

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