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- 自治体名 : 和歌山県紀の川市
- 広報紙名 : 広報紀の川 令和7年7月号
■堀内仙右衛門~「ネーブル王」と呼ばれた男~
紀の川市はフルーツが有名ですが、国産ネーブルオレンジの発祥地であることはあまり知られていません。今回は「ネーブル王」と呼ばれた堀内仙右衛門を紹介します。
仙右衛門は弘化元年(1844)那賀郡段村(現紀の川市桃山町段)の庄屋の子として生まれました。17歳で家督を継ぎ、村全体の利益を考え、作物の改良や実験に取り組んでいました。彼が最初に目を付けたのが最初ヶ峰に続く百合山丘陵地の開墾でした。明治2年(1869)頃から着手し、同時に和歌山県有田郡や京都府宇治へ行き苗木を仕入れ、ミカンや茶の栽培を開始。ミカン栽培は順調に成果を上げ、数年後には竹房・百合・段新田の一帯に約十町歩もの広大な果樹園が出現しました。
それに勢いを得た仙右衛門は明治10年(1877)同志堂本英之進とともに紀北地方の同業者約150人を集め「南陽社」を結成。品種の改良の他、船舶や鉄道の輸送業者と契約し、共同事業を進め、明治13年(1880)に京阪神や東京の市場へミカンを大量出荷しました。仙右衛門はさらなる市場拡大のため、アメリカ市場の輸出に目をつけ、「改進社」を新たに興し、明治18年(1885)アメリカへのミカン輸出を果たしました。しかし、その後アメリカにいた改進社駐在員千田三次郎から『ワシントンネーブル』という新しい柑橘の品種が日本のミカンの伸びを阻んでいるという情報を聞き、仙右衛門は、明治22年(1889)アメリカからそのネーブルの苗木2本を入手し、仙右衛門と堂本英之進の屋敷にそれぞれ植えました。仙右衛門の苗木は無事に発芽し、その後、ミカンの老樹への接ぎ木など改良を重ね、明治29年(1896)には9顆(か)の実をつけるまでに至りました。これが国内最初のネーブルオレンジになります。仙右衛門はその後もネーブルの育苗に没頭、工夫を重ねネーブルの増産に成功しました。
明治35年(1902)アメリカ市場に出荷されると仙右衛門が考案した美しい色刷り化粧紙で1顆1顆包装されたネーブルはアメリカ人の舌を虜にしました。また果実だけではなく、苗木の出荷事業も繁盛し、次第に人々は仙右衛門を「ネーブル王」と呼ぶようになりました。仙右衛門は昭和8年(1933)89歳で天寿を全うするまで村と地域のために働きました。わずか1本の苗木から国産初のネーブルを育て普及させた「ネーブル王」堀内仙右衛門は、市が誇る先人の1人です。
問合せ:紀の川市文化財保護審議会(生涯学習課内)
【電話】77-2511