文化 女人堂(不動坂口女人堂)

かつて高野山は女人禁制であったため、女性は女人結界である女人道から先の山内には入ることができませんでした。高野山に参詣した女性のため、参詣道を登りきった先に女性の籠り堂である女人堂が置かれていました。高野七口というように、高野山へ参詣する道が7つあり、それぞれに女人堂が置かれていました。現在残っているのは、京大坂道を上りきった不動坂口にある女人堂のみとなっています。
女人堂は、高野山に残る建造物の中でもかなり古く、江戸時代初期頃に建てられたもので各所に古い建築の特徴がみられ、古い部材も多く残されています。しかし、これまでの幾度かの改築が行われてきたため、当初の姿からは少し変化しています。現在、建物内部は正面側約半分が土間、背面側が床となっていますが、これは大正4年(1915)に高野山開創1100年記念大法会にあたり地盤を掘り下げ約3m下に移築した際に改変されたものです。それ以前は、部材に残る痕跡や古絵図に描かれた姿から、内部は全面に床で外には縁側が設けられていたようです。全面が床であることで多くの人々が参籠できるようになっていました。
大正4年の建物の改変は、女人禁制が解かれことによります。女人禁制解除により、女人堂に女性が参籠することがなくなりました。不動坂口の女人堂以外の女人堂が残されていないのも女人堂という建物がその役割を終え、必要とされなくなったためだと思われます。
この女人堂には、参籠所として使用されていた際の痕跡が幾つか残されています。数年前に女人堂を調査した際に、天井裏の部材に多くの江戸時代の落書きが見つかりました。これらの落書きされた部材は、元々柱や長押で用いられていたものがですが、改築の際に天井裏の部材に転用されたものです。これらの落書きは、女性が女人堂に参籠した際に書かれたもので、最も古いもので延宝四年(1676)のものがあります。
女人堂は、明治5年まで女人禁制であった高野山参詣の信仰形態を伝える現存唯一の重要な建造物であり、令和6年3月に和歌山県指定文化財に指定されました。

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