- 発行日 :
- 自治体名 : 岡山県鏡野町
- 広報紙名 : 広報かがみの 2025年10月号
江戸時代中期、津山藩では自然災害による不作や、三度にわたる江戸屋敷の焼失で財政がひっ迫し、農民達の生活も困窮を極めていました。
こうした中、享保十一年(一七二六)、津山藩主・松平浅五郎が病により重体となりました。浅五郎は十一歳で跡継ぎがいないため、もし藩主が亡くなれば藩が取り潰しされるという危機を抱いた津山藩では、勘定奉行・久保新平が年貢の収納期を四十日早め、さらに四%の増税を命じたことで、農民達の不満はさらに高まりました。
そしてこの年の十一月十一日、浅五郎は急死し、松平又三郎(のちの長煕(ながひろ))が末期養子として藩主を継ぐことが認められたものの、領地が十万石から五万石へと半減されることとなりました。このような情勢下で領内に不穏な空気が漂う中、二十八日には津山藩の役人が久世の郷蔵から夜間に米を持ち出し、船に積んで川下りをしているところが発見され、不信感を爆発させた目木・河内・富・湯本・三家・小童谷の六触ふれ(「触」とは、大庄屋が管轄する十数ヶ村をまとめた区域)の約四千人の農民が久世村に集結し、百姓一揆が起こりました。この一揆は、美作国の中でも山中と呼ばれる湯原・蒜山一帯を中心に展開されたことから、山中一揆と呼ばれています。鏡野町域からは富触から多くの農民が一揆に参加しています。富触の区域は、現在の富地域と中谷・久田下原を除く久田地区・西屋・箱・杉にあたります。
一揆勢は増税の中止や年貢未納分の免除、村役人の罷免などを求めた嘆願書を津山藩に提出し、藩はこの要求を受け入れ、騒動は鎮静化しつつありましたが、間もなく東部へ飛び火し、加茂谷筋の綾部・河辺・野介代・一宮・田辺触の農民約二千人が一宮村に集結し、嘆願書を提出、その数日後には塚谷・院庄・二宮・一方の四触約千五百人が布原と院庄の間の「高下」に集まり、嘆願書を提出しました。
藩側は騒動の拡大を懸念し、農民側の要求を受け入れますが、その後現在の山中地域や富地域などで、農民達が納めた米の返還を求めて行動を開始されると、津山藩はこの行動を盗賊行為とみなし武力弾圧へと方針を切り替え、一揆の指導者達を次々と捕縛し、約一五〇人が処罰され、そのうち五一人が死刑となってこの一揆は鎮圧されました。町村史によれば、鏡野町域では富東谷二人、富西谷七人、箱二人、中谷一人、原一人、薪森原三人、沢田二人、市場二人、沖四人が捕縛され、富東谷村の与七郎のみが院庄滑川で処刑され、その他の人達は村や寺院の預かりとして赦免されました。
その後、この一揆の要因を作った久保新平は追放となり、翌享保十二年には真島・大庭両郡は幕府領となりました。
一揆の参加者が多かった富地域では、参加者達が余川の小桜谷に隠れ、藩の捜索から無事に逃れることができたことを感謝してこの地に祀った祠が、後に小桜神社となったと伝えられます。こうしたいわれから、小桜神社は近代には徴兵を逃れることができるという噂が流れ、戦前は多くの人が参拝したといいます。小桜神社は現在布施神社境内に移されています。
山中一揆は来年で三〇〇年を迎えます。山中地域では、各地に犠牲者の墓や供養塔、顕彰碑が残されており、現在でも犠牲となった農民達を義民として祀り、地域の人々によって顕彰活動が行われています。
参考:『富村史』『鏡野町史』『奥津町史』『地域に息づく歴史をたずねる』
問合せ:鏡野町教育委員会 生涯学習課 日下
【電話】0868-54-0573