- 発行日 :
- 自治体名 : 広島県府中町
- 広報紙名 : 広報ふちゅう 2025年3月1日(No.1133)
第50回 府中が農村だったころ(10)~棚田と「農士を称える碑」(1)
前回まで、干拓(かんたく)を中心とした府中村の耕地(こうち)増加を紹介してきました。今回は、谷間に沿って作られた棚田(たなだ)を紹介します。限られた面積の府中では土地の活用のため、多くの棚田が作られました。残念ながらどの棚田がいつ造られたのかを示す史料は確認できません。ただ、不便(ふべん)な棚田での仕事に携わった人々の苦労を忘れないとの思いを刻んだ「農士(のうし)を称たたえる碑(ひ)」という石碑があります。まずは、碑に刻まれた文字を全文掲載します。
むかし里のひとびと深くこの辺りの山谷(やまたに)に分け入り手をもって石をおこし土を寄せ粒々猫額(つぶつぶびょうがく)の水田(すいでん)を拓(ひら)き岩間(いわま)より湧(わ)き出(い)づる水を引き里方(さとかた)より苗(なえ)を背負(せお)いて細径(ほそみち)を越え水稲(すいとう)一株(ひとかぶ)一株を手植(てう)えては一歩を満たし能(よ)く一畝(いっせ)また一畝となす国のため郷土の食糧自足のため汗と土にまみれ耕作を続けし頃の農士を偲(しの)び感慨転(かんがいうた)た措(おか)ざるものあり仍(よっ)てここに之(これ)を記(しる)す
昭和五十年晩秋(ばんしゅう)財団法人広島青少年文化センター理事長 筒井留三
この石碑は県道84号線の安芸府中高校から甲越峠(こうごえとうげ)への坂道を登り揚倉山(あげくらやま)健康運動公園の入り口を過ぎ、大きく左カーブする道路右側に建っています。現在では想像できませんが、この碑の下の住宅地、瀬戸ハイム3・4丁目一帯には棚田が広がっていたのです。『安芸府中町史通史編』54ページには昭和35年の頃の棚田が続く写真と同じ場所の昭和53年の瀬戸ハイムが掲載されており、その変化がよく分かります。
棚田での耕作はこの石碑に記されたように背負子(しょいこ)に苗や農具を背負い、一歩一歩と細い坂道を上り、狭い棚田に一株一株と植えていく汗と土にまみれた作業だったのです。
府中町文化財保護審議会委員 菅 信博