くらし 特集―被爆80年―(2)

■平和紙芝居を読み続けて25年 今、次世代につなげるとき
中村 由利江 さん・中村 竜也 さんインタビュー

◇幼少期の記憶から平和紙芝居へ(中村 由利江さん)
被爆した両親は戦争で辛い思いをしました。身重だった母はピカドンで吹き飛ばされてから、雷が怖くなったと言っていました。父は兵隊として、戦地で撃たれ喉に穴が空き、うまく声を出せませんでした。父は大変な思いをしたから「生きてるだけでいいんじゃ」とよく言っていました。
私の紙芝居のルーツは5歳の頃。昭和30年頃、戦後でテレビもない時代よね。読み聞かせが上手な紙芝居のおっちゃんが駄菓子を売りに来た。駄菓子を買って、ワクワクしながら『月光仮面』とか観ていた。
大人になり結婚して、子育てが終わったら、地域活動を始めました。府中公民館に声をかけてもらい出入りしていると、事務室のロッカーに紙芝居がずらっとあって、読み聞かせを始めました。45歳ぐらいから本格的に紙芝居をするようになりました。格好を選ぶのが楽になるとひらめいたのが、「おっちゃん」になること。会場に向かう車の中でハンチング帽を被ると紙芝居のスイッチが入ったものです。
ちょうど50歳のとき、主人を肺がんで亡くしました。8月6日が結婚記念日だったこともあり、平和紙芝居を府中公民館からお借りして、平和祈念公園に行ったんです。小さい頃に観たように自転車にのぼりを立てて、お礼や祈りの気持ちを込めて紙芝居を読んでみました。この活動を10年続けたら、平和の大事さを伝えるため、広島市から呼ばれるようになりました。それから緑ヶ丘中学校、府中中学校、安芸府中高校とも活動するようになり、活動も満25年。
今年、息子が北小学校で平和紙芝居を読んでくれました。伝え方は変わってもいい。とにかく次世代にそれを残していくことが大事だと思っています。

◇紙芝居は読む人がいてこそ(中村 竜也さん)
25年間、母の活動を見ていて大事なことだとは感じていました。僕らの若い頃は平和学習を受けても「伝える」ということは教えてもらえませんでした。おじいちゃん、おばあちゃんが戦争で経験したことを伝えてくれたし、母の世代がしっかり受け継いでくれた。わざわざ僕らが動かなくてもよかったんですよね。
ただ、そうした世代が高齢となり、母も今まで通りの活動が難しくなってきて、僕らの世代は何もやっていなかったんだなと実感しました。紙芝居は物として残すことはできるけど、やはり読み手がいて成り立つもの。紙芝居の需要はあまりないかもしれないけど、母の活動は残すべきだと思いました。僕が引き継いで、また誰かにバトンを渡せたらいいですね。
被爆者がいなくなる中、僕たちは直接話を聞ける最後の世代です。実体験を聞いて心が動いた私の感情を乗せて紙芝居を読むことで、子どもたちが真剣に聞いてくれて、心を動かせることもあるんだと思っています。