- 発行日 :
- 自治体名 : 山口県柳井市
- 広報紙名 : 広報やない 令和7年6月12日号
■毛利軍の防長侵攻(6)
神代氏の対応市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
前回は武士を捨て農民となった伊陸の藤井氏を紹介しました。今回は迫ってきた小早川(こばやかわ)軍に対する神代氏についてみていきましょう。
由宇・日積・伊陸を平定した小早川軍は軍船に戻り、瀬戸内を南下して神代浜に着きます。浜では神こうじろ代右京進忠兼(うきょうのじょうただかね)がうやうやしく出迎えました。かつて神代氏は大内氏に重用されたことのある家柄でしたが、態度を一変して小早川軍を歓迎したのです。
まずは大内氏に重用されていた事例を紹介しましょう。大内氏と細川氏はともに日明(にちみん)貿易を室町幕府から許されていました。利益を巡って大内氏と細川氏は対立し、交易先の明国寧波(にんぽー)で衝突を起こします。ついには殺害事件にまでエスカレートしました。明国は貿易の停止を考え始めます。日本側は利潤の大きい貿易を継続するために、解決を図ります。衝突の原因は大内側指揮官の神代(こうじろ)源太郎(げんたろう)にあったと仕立てたのです。神代源太郎の切腹をもって、事態を収束させました。つまり神代氏は大内政権内で重きをなしていたのです。にもかかわらず、後に小早川軍が迫ってくると、神代氏は大内配下であったのですが、歓迎の態度をとったのです。それは厳島合戦の結末や伊陸での残虐な弾圧の様子から、もはや反抗しても無駄と判断したのでしょう。小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)を館に招き入れて酒を酌み交わし、今後は神代軍が先兵となって突撃することを確約しました。酒宴には大畠瀬戸で獲れた新鮮な魚貝が並べられ、大いに酒を煽った隆景は上機嫌で床に就きました。
神代右京進忠兼の従順な態度に対し、20石の新領地が加増されました。ほんのわずかな加増でしたが満足でした。石高が問題ではなく、毛利の配下に列せられて、新しい歴史の潮流に乗ることができたことを喜んだのです。西方進軍の先陣をきることになった神代忠兼軍は大いに戦功をあげ、大組に列せられます。
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