- 発行日 :
- 自治体名 : 徳島県徳島市
- 広報紙名 : 広報とくしま 2025年10月15日号
現代親しまれている「ひょうたん島」は、新町川(しんまちがわ)と助任川(すけとうがわ)、福島川に囲まれた地域が瓢箪形(ひょうたんがた)をしているので、その名があります。両国橋(りょうごくばし)からスタートする「ひょうたん島クルーズ」は、見どころが豊富で時間が経つのを忘れてしまいます。ところが江戸時代には、この地域を示す「ひょうたん島」の地名はありません。
漢字表記の「瓢箪島(ひょうたんじま)」は江戸時代の地名で、徳島城西の丸の西側にあった御花畠(おはなばたけ)と出来島(できじま)との間の小さな地域で、武士の住む場所でした。同所にあった堀が瓢箪の形に似ていたため瓢箪島(ひょうたんじま)の地名が生まれました。
堀は、現代では前川橋へ通じる道路になり、その痕跡はみられません。元は、城側と出来島とを仕切るために設けられた軍事的なものであったとされます。
同所は城に近かったので武家地として早くから成立し、江戸中期には、津田藤内(つだとうない)(350石)436坪、森田林助(もりたりんすけ)(315石余)844坪、井上分蔵(いのうえぶんぞう)(200石)720坪、斉藤弥三右衛門(さいとうやさんうえもん)(150石)440坪、林与九郎(はやしよくろう)(150石)514坪、長谷川甫庵(はせがわほあん)(150石)346坪の6軒の武家屋敷がありました。いずれも広大な屋敷で、領地を与えられた藩士ばかりです。
天保14(1843)年に12代藩主斉昌(なりまさ)が隠居し徳島城西の丸で暮らし始めると、御花畠(おはなばたけ)は拡充され、それに伴って瓢箪島にあった武家屋敷は接収されたと考えられます。さらに明治2(1869)年3月には練兵所(れんへいしょ)となっています。
地名の元になった瓢箪堀は明治時代以降も残りました。明治22(1889)年に落成した徳島監獄署(のち徳島刑務所)の写真を見ると堀はまだ顕在でした。
音読みは同じですが、江戸時代の武家地「瓢箪島」と現代のクルーズで親しまれる「ひょうたん島」があることがわかります。歴史遺産の地名に思いを巡らせながら、散策やクルーズを楽しんでみてはいかがでしょうか。
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