- 発行日 :
- 自治体名 : 愛媛県八幡浜市
- 広報紙名 : 広報やわたはま 2025年5月号
■八幡浜で生まれた「日本航空機の父」
二宮忠八の業績を称え、毎年4月29日に開催される二宮忠八翁飛行記念大会も今年で50回目を数えました。子どもたちや航空愛好者が参加するこの大会は、地域の文化や歴史を学ぶ場だけでなく、忠八の偉業を次世代に伝えるイベントでもあります。
幼いころから好奇心旺盛だった忠八は、飛行機の原理を独自に発見し、日本で初めてゴム動力による模型飛行機の飛行実験に成功しました。この成功は、かの有名なライト兄弟が有人動力飛行に成功する12年も前に達成したものです。時代に翻弄され、有人飛行への夢は断念せざるをえませんでしたが、忠八の想いは日本各地で形となって残っています。
今月の特集では、忠八が取り持つ縁が、現代に形となって生き続けていることを当市の学芸員のインタビューや数々の写真とともに紹介します。
▽年表で見る二宮忠八
■日本航空史に刻まれる二宮忠八の業績
八幡浜市教育委員会
生涯学習課文化振興係
学芸員 井上千秋さん
日本で最初の模型動力飛行が記録されたのは134年前の明治24年(1891年)4月29日。この記録を樹立したのが二宮忠八です。模型飛行機を飛ばしただけと思われがちですが、実は日本航空史の第一頁を飾るほどの大発明なのです。忠八の業績は、国内各地の航空系博物館で紹介されており、令和4年には日本の航空宇宙技術発展史を形づくる画期的な技術であるとして、日本航空宇宙学会の「航空宇宙技術遺産第一号」に認定されました。
忠八は、裕福な海産物問屋「大二屋(だいじや)」の四男として生まれましたが、7歳頃、家業が倒産し、12歳で父親が他界。進学をあきらめ、叔父が営む薬種業の手伝いや、のちに評判を呼ぶ凧を売るなどして家計を支えました。22歳の時、薬学の知識を活かして看護兵として陸軍に入隊。野外演習の帰路、香川県のもみの木峠(現:まんのう町)で40〜50羽のカラスが翼をはばたかせることなく滑空する姿を見て、飛行のヒントを思いつきます。それが明治24年4月29日の「烏型模型飛行器」の飛行実験の成功につながるのです。その後もさらなる研究の末、有人飛行が可能な「玉虫型飛行器」を完成させます。あとはエンジンさえ開発できればという段階で日清戦争へ出征。戦地での飛行機の必要性を痛感した忠八は軍に幾度も上申書を提出しますが全て却下されてしまいます。そのため、飛行機の独力完成を決心し、軍籍を離れ製薬業界に飛び込み、経験や知識を活かし、出世を重ね資金と地位を得ます。忠八が懸命に働き、ここまで登りつめたのは、飛行機研究という夢のためでした。
資金に余裕のできた忠八は、明治34年、故郷と同じ「やわた」の名への懐かしさと、木津川が飛行実験に適した砂原であることから京都府八幡町(現:八幡市)の旧精米所を買い取り、玉虫型飛行機の製作に取り掛かります。そんな矢先、ライト兄弟が明治36年に有人飛行に成功したニュースが届き、製作をあきらめることになったのです。しかし、大正に入り、飛行機躍進の時代になると忠八の功績は世に認められるようになります。多くの表彰を受け、ゆかりの地には記念碑が建てられました。また、飛行機の時代になるにつれて飛行機事故が多発するようになると、八幡市の自邸に犠牲者を弔う飛行神社を創建し、自ら神主となりました。晩年は八幡浜にもよく戻り、旧友と交流を深めるなど穏やかな余生を過ごしていたようです。
※忠八が残した詞につきましては本紙をご覧ください。
これは忠八が残した詞です。空を飛ぶという夢に向かい挑戦し、夢破れるも、空の平安を祈るという新たな使命を全うした忠八。彼の残した想いは今も生き続けています。
※文面中、飛行“器”とあるのは、忠八自ら命名した“器”であるため、自作機の紹介においては“機”でなく、あえて“器”を使用しております
■八幡市との友好都市協定締結に向けて
京都府八幡市とは「八幡」の字と「やわた」の読みが共通しており、今回の特集で触れたように二宮忠八を通して非常に深い縁があります。また、平成25年からは中学生同士の相互交流事業を行ってきました。
このたび、両市の共通の課題や発展の可能性を踏まえ、未来に向けて互いに協力・連携していくことを目的として、中学生交流事業が実施される8月19日に友好都市協定を締結することとなりました。
締結後は、協定に基づき八幡市と観光・歴史・文化・教育などさまざまな分野で、相互交流に取り組んでいきます。