文化 かみじま郷土話 30

■岩城島と大名行列
岩城島は、江戸時代には生名島とともに松山藩に所属していました。松山藩の参勤交代の際、松山城を出発した藩主一行は、三津浜から船で斎灘(いつきなだ)を航行し、大三島と伯方島の間の鼻栗瀬戸(はなぐりのせと)を抜けて岩城島本陣で停泊。その後、備後灘を通過して播磨室津で一泊し、陸路で大阪を経由して江戸へ向かったとされています。岩城島での藩主一行の停泊には、岩城島本陣の三浦家が対応にあたりましたが、その他にも藩主参勤の際に役割を持った人々がいました。
藩主の一行が、船で岩城島周辺を航行する際には、海辺で待機していた舸子(かこ)(船の漕ぎ手)が一行の船を曳いて、その航行を補佐しました。舸子は、関前の三島(岡村)漕船衆30人と、岩城漕船衆50人の、合わせて80人で対応しました。岩城では、この御用を務めた人々は百姓がほとんどでしたが、一人につき扶持米(ふちまい)(お米による給与)が与えられたことから、やがては専業化されました。この舸子が集まって待機していた岩城島東岸の浜辺は、水主浦(かこのうら)という地名で残っており、現在は訛(なま)って懸浦(掛ノ浦 かけのうら)と呼ばれています。
文化13年(1816年)、岩城島の港工事に関する記録によると「中瀬戸の通船の船々は芸州御手洗より備後鞆津までの間にては当所を汐繋(しおつなぎ)場所と相心得居候」とあり、岩城島は農村であると同時に海駅(かいえき)としての役割が重要視されていたことがわかります。

担当:生涯学習課 曽根大地