くらし みんなで人権(じんけん)を考える「つなぐ」TUNAGU II

■「TUNAGU II」とは
人と人、心と心をつなぐ、世界とつなぐ―人権尊重のまちづくりの一環として、さまざまな人権問題について市民の皆さんと共に考えます。

■おにぎりが、食(た)べたい!
そのだ ひさこ
大学卒業後、いくつかの職を転々として、32歳で中学校教員になった。30歳のとき、女手一つで働きつづけてきた母が、田舎で倒れ、半身不随になった。高齢者医療や施設など皆無の時代。私は母の治療のため、止むなくなりたくなかった教員となり、教育現場で働き始めた。30~40代は、育児・保育園通いと母の病院通い、昼間の勤務、夜の校区内の被差別部落の子ども会への出席、三つどもえ(!?)の生活だった。昼と夜がズルッとつながっていたような生活。何とか、無我夢中で、はうように生きた10年だった。
家族らしきものが無く育った私の根っこは、基本的に人恋しくて、寂しがり屋だったように思う。子どもたちが大好きで、60歳の退職まで、授業と担任をした。「同推」(同和教育担当者)をした数年以外は、学年主任、研修部長などに就いたが、どんな役職のときも担任だった。授業と担任のない教員生活は考えられなかった。
退職のときも担任であり、体育祭では応援団長の「パンダを胴上げしろ!」という号令で、最後の教え子たちから胴上げされて体が空に浮いた。パンダは私のあだ名である。
時を経て、その団長の結婚式に呼ばれ、挨拶を頼まれた。何をしゃべったのか忘れたが、最後の締めは、昨年亡くなられた谷川俊太郎さんの『生きる』という詩の一節だった。「生きているということ/いま生きているということ」、そして「かたつむりは這(は)うということ/人は愛するということ/あなたの手のぬくみ/いのちということ」と言う詩句をのべたように思う。
その応援団長だった彼は、大学卒業後、就職して営業の仕事をバリバリ頑張っていた。あるとき、営業の途中の彼が、ふらりと玄関に現れた。疲れていたのだろう。ゴロンと横になり、しばし休憩していた。そのときの彼の一言を私は忘れない。「パンダ!おにぎりが食いたい!」
教員になって、子どもたちの心に届くような教材が欲しかった。部落問題や女性問題などの教材は少しずつ、手作りするようになった。それを、卒業のときに『魂を授業に』という冊子にまとめて印刷して、子どもたちに配っていた。そんなものはもう反故(ほご)にされていることだろう。
ただ、60歳まで担任をしていた私は、子どもたちが疲れこける時期(体育会、中体連)には朝5時に起きて、焼いてほぐして骨を取った鮭の「おにぎり」を50個くらい作って行き、給食時に食べさせていた。いまだ、禁句指導がにおう私たちの人権・同和教育。人権・同和教育って、たまには「美味し~い」のもいいかもしれない(笑)。握りつづけた「おにぎり」は、「人生に負けるなよぉ!」という私のささやかなメッセージだから。

■人と人との出会いの中で
人権・同和教育では、自他を大切にする人権感覚を培っています。その中身は、人権に関する知識・理解をはじめ、他者の立場に立って分かろうとする想像力や共感力、適切に表す表現力やコミュニケーション能力、人間関係を円滑にさせる調整力などです。これらは、人と人との関わり合い、つながり合いの中で高められます。
年度替わりの4月は、新たな人と人との出会いの時期です。人の心の中にある機微についての理解は、現段階ではAIより人そのものの方が進んでいると言われます。人としっかり向き合うことで、豊かな人間関係や人権尊重社会を築いていきたいものですね。

問合せ:教育政策課