くらし 特集 戦後80年 戦争の残痕と平和の継承(1)
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- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県筑紫野市
- 広報紙名 : 広報ちくしの 令和7年8月号
■特集 戦後(せんご)80年(ねん) 戦争(せんそう)の残痕(ざんこん)と平和(へいわ)の継承(けいしょう)
終戦の日となる昭和20(1945)年8月15日から今年で80年。
かけがえのない多くの命を奪い去る戦争の恐怖を忘れてはいけません。
今月の特集は、市内に残る戦争の「残痕」と平和の「継承」をテーマに、戦争の悲惨さと平和の大切さについて考えます。
▼戦争(せんそう)の残痕(ざんこん)
戦争の被害や影響は、沖縄や本州、福岡市などの都市部のみでなく、筑紫野市にも及び、かけがえのない命を奪いました。
筑紫野市に残る戦争の傷痕。
その中のいくつかを紹介します。
○第十六方面軍司令部跡(だいじゅうろくほうめんぐんしれいぶあと)
市内山家に残る、山を切り抜いて作られた日本軍の指揮所の跡です。北壕150メートル、南壕200メートルの幹線トンネルが複数本作られ、最大断面は幅13メートル、高さ7メートルの急造の洞窟陣地です。
戦争末期、次第に追い詰められていった日本軍は、本土防衛、九州決戦と方針を大きく変えることを余儀なくされました。この急造された洞窟陣地には、九州を統括する「第十六方面軍」が配備され、司令官はここから指揮を行っていました。
○西鉄筑紫駅列車銃撃事件(にしてつちくしえきれっしゃじゅうげきじけん)
市内において最大の戦禍となった事件。終戦1週間前に、筑紫駅近辺を進行する上りと下りの電車2本が、アメリカ軍戦闘機複数機からくり返し機銃掃射を受けました。
大勢の人が乗る電車の中、逃げる場所もなく、一方的に銃撃を受けたこの事件は、64人が即死、100人以上が負傷したという記録が残っています。しかし、140人以上の人が亡くなったという目撃者の証言もあり、正確な死傷者数ははっきりとはしていません。
また、事件当時の映像が米国国立公文書館に残っています。
○戦役関係碑(せんえきかんけいひ)
市内には太平洋戦争関連のものを含め、戦役に関係する石碑が181基確認されています(平成28年度時点)。石碑には、慰霊碑や墓碑などがあり、市内に点在しています。慰霊碑は戦後に建てられたものが多く、大きなものになると、223人もの戦没者名が刻まれた「太平洋戦争殉国銘碑」(市内塔原)があります。
また、旧御笠村町役場の資料によると、旧御笠村から太平洋戦争へ出兵した人の内、通知のあった人だけでも、134人もの戦死者が出たという記録が残っています。昭和27年、旧御笠村では、戻ることのなかった戦死者を慰霊するため、「忠魂碑」(市内吉木)が建立されました。
○二日市保養所(ふつかいちほようじょ)
終戦を迎え、旧満州(現中国東北部)や朝鮮半島などからの博多港への引揚者はおよそ139万人とされています。
日本に引き揚げてくる途中、外国兵などから暴行を受け妊娠、あるいは性病に感染した女性たちや、故郷を前に自ら命を絶った少女がいたと伝えられています。
引揚者の健康回復のため、昭和21(1946)年3月25日、厚生省は博多引揚援護局保養所を設置。通称を「二日市保養所」といいました。当時、堕胎は非合法であったため、京城帝国大学医学部の医師たちは、ひそかに堕胎手術や性病治療を施しました。
二日市保養所の建物は、その後、福岡県済生会二日市病院となり、現在その跡地は特別養護老人ホームむさし苑の敷地内にあります。