文化 太宰府の文華~公文書館だより(136)~

■古代山城と大宰府(4)〜文献史料から考える古代山城

今回も本年4月号に続き古代山城について考えてみます。『日本書紀』には天智天皇3(664)年に水城の築造、同4年に長門国(ながとのくに)の城(城名不明)、大野城・椽城(きじょう)(基肄城(きいじょう))の築城が記されており、これらが大宰府をとりまく古代山城の中核といえるでしょう。
一方、同6年には高安城(たかやすじょう)(奈良・大阪)、屋嶋城(やしまじょう)(香川)、金田城(かねだじょう)(長崎・対馬)の築城が記されています。両年の築城を関連させて、同4年の築城を大宰府周辺の第一次防衛網、同6年の築城を畿内や対馬を含めた第二次防衛網と位置づける見方があり、これは「古代山城と大宰府」の問題を考える際、単に大宰府周辺や北部九州地域に注目するだけでは不十分であることを示しているでしょう。
古代山城に関する文献史料はきわめて限られており、古代山城のありようを明らかにすることを難しくしているのですが、高安城は畿内に近いばかりではなく、侵攻軍を防ぐいわば最後の砦ということもあってか、築城・修理・廃城の記事、さらに天皇の行幸(ぎょうこう)記事が残っています。そうしたことから、この高安城関連の記録によって古代山城の変遷モデルを想定し、他の山城にも適用しようという試みがあります。
このとき重要なのは、先述の第一次防衛網・第二次防衛網の見方と同じように、高安城の変遷のあり方と大宰府周辺に展開している古代山城の動向を重ね合わせて考えてみることではないかと思います。この視点で古代山城に関する文献史料をながめてみると、たとえば高安城の最初の修理は文武天皇2(698)年に行われますが、同じ年に大野城・基肄城・鞠智(きくち)城の「繕治(ぜんち)」も行われていることが分かります。これをどう解釈するかは今後の検討課題です。
ただ、文献史料から古代山城を考えようとする場合、史料のない多くの古代山城が考察の対象から外れてしまいます。そうした古代山城のありようは、発掘調査の成果を基に考察しなければならないでしょう。これについては次回にふれることとしたいと思います。

太宰府市公文書館
重松(しげまつ)敏彦(としひこ)
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