文化 とす新風土記〜「鳥栖市誌」を読む〜 第121回

■「勝尾城(かつのおじょう)を知る」第17話 〜広門(ひろかど)の決断〜
元亀(げんき)元年(1570年)今山合戦(いまやまかっせん)で大敗北した大友宗麟(おおともそうりん)は、すぐさま博多を守っていた兵士と筑後各地の武将たちを千栗城(ちりくじょう)(みやき町)に呼び寄せることで、龍造寺(りゅうぞうじ)家の進撃を食い止めることに成功しました。大友家と龍造寺家はここで停戦をします。しかし、両家の小競り合いが止む事はありませんでした。
大友家は、龍造寺家を抑え込むため、戦上手とされた重臣の戸次鑑連(べっきあきつら)(後の立花道雪(たちばなどうせつ))を博多に近い立花山城(福岡市・新宮町・久山町)に配置します。博多を守りつつ、いざとなったら救援に行けるようにしたのです。また、龍造寺家との最前線となった西島城(みやき町)には、武器などの支援を行い、加えて筑後から援軍を派遣しました。筑紫家にも大友家から龍造寺家の侵攻に備えるようにと書状が送られていま
す。両家の戦いは長らく膠着(こうちゃく)しました。
ところが天正(てんしょう)5年(1577年)島津家に敗北した日向国(ひゅうがのくに)(宮崎県)の武将伊東義祐(いとうよしすけ)は、豊後国に逃れ大友宗麟に助けを求めます。
これを受け、大友宗麟は翌天正6年11月自ら大軍を率いて日向国へ侵攻、宮崎県中部の高城(たかじょう)(木城町(きじょうちょう))まで攻めこみます。ところが島津家の攻撃を受け大敗北を喫します。この合戦は、高城の戦いや耳川(みみかわ)の戦いとも呼ばれています。
この敗戦によって大友家は領地や人材を多く失いました。同時に、それまで龍造寺家の侵攻を抑えていた多くの支援が途絶します。龍造寺家はこれを機に、佐賀県東部と筑後地方への侵攻を開始し、瞬く間に筑後地方を手中に収めます。筑紫広門は綾部城と千栗城を明け渡して、龍造寺家と友好関係を結びます。
天正7年(1579年)1月、広門は大友家の支配する岩屋城(太宰府市)を攻撃します。広門は大友家と敵対する道を選んだのです。
(鳥栖市誌第3巻第3章より)

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