文化 湯前歴史散歩 普門寺のはなし(4)

普門寺は明治に廃寺になっていることもあり、まとまった史料に恵まれません。そんな中『水上村史』には、文化14年(1817)に的場仁兵衛(にへえ)が書き残した「覚書控(おぼえがきひかえ)」という史料が紹介されています。的場仁兵衛は湯前居住の外城士※です。「覚書控」に当時の普門寺に関するうわさなどが記録されていました。

■普門寺のうわさ
まず普門寺と金六(きんろく)なる者が懇(ねんご)ろの間柄であったことが記されています。金六という人物、「覚書控」には金六としか記されていませんが、ほかの史料から的場仁兵衛と同じく湯前の外城士(そとじょうし)であった樅木金六のことと思われます。知行三十石を与えられ、藩主の江戸参勤のお供や庄屋役などを勤めた人物です。老年は経済的に楽ではなかったようで、普門寺から借金をしていました。そのため普門寺の機嫌を損ねては暮していくこともできないので懇ろにしているとうわさされていたようです。
金六には七弥(しちや)という次男がいました。貧しいので分家させられずにいたところ、普門寺が田畑屋敷・家財道具の世話をし、米や銭まで貸し与えた上、普門寺の年貢収納や年末の算用の仕事を七弥に依頼しました。七弥は仕事を引き受け、さらに金六の孫娘のぶを嫁にすることになりました。七弥から見れば姪と結婚したことになりますが、当時はこのようなこともあったのかもしれません。
ところが、のぶは女の身で普門寺ヘ頻繁に出入りをしていたようです。当時、僧侶は基本的に妻帯できなかったので、普門寺に女性が頻繁に出入りしているとうわさになっていたようです。七弥は普門寺への出入りをきつく差し止めましたが、のぶは言うことをきかなかったようで、結局のぶと離縁することになりました。すると普門寺は七弥へ世話をした田畑屋敷や道具を取り上げると言い出し、貸していた米や銭も返すように言ってきました。困った七弥は的場仁兵衛に相談しました。的場仁兵衛は地域の有力者で顔役的な存在だったと思われます。七弥とのぶのいざこざは普門寺が絡んで、かなりこじれていたようです。仁兵衛は庄屋と相談して、内々に済むように取り計らったということです。
推測するに、普門寺住職とのぶは以前から関係があり、普門寺はのぶを七弥の嫁にして七弥を支援する建前で、実質はのぶに対する援助をしていたということではないでしょうか。
的場仁兵衛は七弥の話を聞いて、普門寺に関する世間の取沙汰(とりざた)が事実だったのだと思い当たったと記しています。普門寺とのぶの関係は公然の秘密だったのかもしれません。
※外城士…外城に住む武士。外城とは、人吉藩の中で知行取の武士が居住したところ

教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)