文化 湯前歴史散歩 普門寺のはなし(5)

■普門寺と地域社会
「覚書控(おぼえがきひかえ)」には、前回の話に続けて「先代までは普門寺で大般若経(だいはんにゃきょう)や雨乞いの祈祷(きとう)などをしていたが、やめてしまい、農民はうれしく思っていない」「以前は猪鹿倉の農民が年2回、市房神社へ薪を奉納し、普門寺から酒や食事を賜っていたが、今の住職はやめてしまい、猪鹿倉の農民も皆うれしく思っていない」「以前は春秋の彼岸には普門寺住職が市房神社へ詰めていたが、今の住職は小僧や児(ちご)に行かせて、自身はようやく日帰りで行くか行かないかぐらいのことで、願成寺から叱られた」など普門寺の怠慢に対する不満が書き留められています。記述からは農民の生活にかかわる雨乞いなどの祈祷や、市房神社の別当としての勤めを果たすことが、地域社会から普門寺に期待されていたことであったと読み取れます。当時の普門寺が期待どおりではなかったことが記録され、裏返しに普門寺が本来果たすべき役割を知ることができます。

■よしんぼ
ところで前回「覚書控(おぼえがきひかえ)」から紹介した、普門寺・樅木七弥・のぶに関するうわさ話を連想させる民謡があります。かつて球磨人吉で歌われた田の草取り唄『よしんぼ』です。
一覧については本紙をご参照ください
昔、普門寺によしんぼ(唯心坊(ゆいしんぼう))という坊さんがいたそうです。色男で、美女を見ると口説いていたということです。歌詞を読むと、よしんぼは僧衣に紅絹(もみ)(紅染めした無地の平絹)の裏地を付けたしゃれた坊さんで、普門寺の庭には鶴女・千亀女という女性が出入りして、着物の裾を引きずって歩くのでほうきがいらないとか、よしんぼが普門寺から元町を眺めれば、鶴女・千亀女が手招きする、などと歌われています。唯心坊が実在したかは不明ですが「名は言うちゃならぬ」と言いながらも田の草取り唄にして、冷やかしながら、農作業のつらさを紛らわせたのかもしれません。

教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)
参考文献:『水上村史』『球磨民謡集』『肥後のうた』