文化 シリーズ第9号 前略、市史編さん室より

江戸時代の指宿には藩の役所の「地頭仮屋(じどうかりや)」が外城市に置かれ、幕末にそこで働いていた前田勘助(まえだかんすけ)は仕事の内容を『前田勘助日記』に細かく記録しました。幕末から明治にかけての指宿を知るための重要な手掛かりです。日記からいくつかのエピソードを紹介します。

幕末、イギリスやフランスなどの船舶が藩の領域に次々に来航しました。日記には指宿周辺に出没する外国船の記録があります。

(安政5年(1858)6月29日)
佐多の尾波瀬の沖に異国船が三艘出現した。

(文久3年(1863)2月17日・18日)
蒸気船が佐多沖から山川児ヶ水の方へ航行し、山川に近い場所に碇を下したと報告があったため、早馬を出し係の者たちを集め備えた。また兵を砲台に派遣した。

中国の清はイギリスなどによって領土を侵略されました(アヘン戦争)。藩主島津斉彬(しまづなりあきら)は西欧諸国の侵略から日本を守るために軍事力の強化と国力の増強が必要と考え、藩内各地で軍事訓練が行われました。指宿にも訓練場があったのです。

(安政5年(1858)3月23日・24日)
潟口浜と田良浜で、指宿・山川・頴娃・今和泉・喜入の合同軍事調練が開催され、島津斉彬公が見学をされた。指宿から72人の兵が参加し、全部で372人による砲術訓練があった。

外国船が鹿児島湾の奥に入り込むと鹿児島城下は危機にひんするため、鹿児島湾の入り口の指宿などに砲台を設置し、侵入を食い止める必要がありました。

(文久3年(1863)4月13日)
宇左衛門殿は大山崎の台場設置現場に勤めた。

山川港の周りにも砲台があり、そこに火薬を供給する火薬工場(「銃薬方」)が山川成川に設置されました。

(文久3年(1863)5月2日)
山川水車場への「銃薬方」造立に伴い、指宿から大量の杉材木が取り寄せられた。

文久3年(1863)7月、イギリスの軍艦7隻が鹿児島湾に侵入し、藩と戦闘が発生しました(薩英戦争)。鹿児島城下は大規模な火災が発生するなどの被害を受けました。この戦闘後、藩内では更なる軍事力増強が進められ、湊地区には成川火薬工場に供給するための火薬の原料工場が造られたのです。

(元治2年(1865)3月21日)
大根占硝石製造所の責任者・西田源左衛門殿が、湊地区の「硝石丘小屋」の視察に来られた。

「硝石丘」は島津斉彬がヨーロッパから導入した火薬原料の製造技術です。湊地区には最新技術を使った生産拠点が設置されました。視察に来た西田源左衛門(にしだげんざえもん)は俳優の西田敏行(にしだとしゆき)さん(故人)の曾祖父に当たる人です。
日記から、緊張感漂う幕末の指宿の様子を知ることができるのです。

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