- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県垂水市
- 広報紙名 : 広報たるみず 令和7年5月号
■和田香苗と東郷青児
○和田香苗の半生
和田香苗は明治30年8月4日、秀豊(父)、トヨ(母)の三男として東京の愛宕に生まれました。
大正4年、青山学院中等部を卒業した後、東京美術学校西洋画科に入学し、同8年に卒業。同9年から3年間、アメリカ、フランス、イタリア、イギリス等を歴遊し絵画研究に没頭。ルーブル美術館ではボッティチェリのフレスコ画の模写も行っています。帰国後、東京高等工芸学校に教授として勤務し、昭和9年には垂水小学校の講堂掲示用として『二重橋の図』を描きました。同10年から9年間、南洋諸島や中国大陸などで従軍画家として、現地の風景や寺院等の作品を残しています。
昭和20年3月に東京高等工芸学校を退職、同24年5月から4年間、工学院大学教授として勤務し、この時期に父母の郷里である垂水に2か月あまり滞在して作画に努めました。
○盟友が思う香苗の存在
昭和52年6月4日に亡くなった香苗に、同窓生の画家・東郷青児は次のような弔辞を寄せています。
『和田香苗君と私は青山学院中等部の同級生でした。今から60数年前のことです。香苗君は日本洋画壇の大先輩和田英作先生の弟さんでクラスでもずばぬけて絵が上手だったので、当然彼が中心となり、校庭のクローバにちなんでクローバ画会と云う絵を描く者や音楽をやる者や文学に熱中する者のグループをつくりました。私もそのメンバーの1人で回覧雑誌を出したり、そのために我々の青春はゆがめられることもなく楽しく健全に成長していきました。これが香苗君の抱擁力のある立派な人格によるもので、今でも当時を思い返し懐かしさを禁じ得ません。
京都大原で開かれたクラス会に引続き、東京久我山の私の家で同じクラス会を開催し、80才を出たり入ったりの老骨ぞろいでしたが、朗らかな会合で各自の健康を心から祝いあったものです。また、近々同じような同窓会を開く計画が進められていると聞いたやさき突然香苗君の悲しい訃報に接し胸つまる思いです』という弔辞には香苗との親密な交友関係が伺えます。
現在、垂水市内には教育委員会や垂水高等学校、垂水小学校等に香苗の絵が残されています。
▽参考資料
『弔辞』(東郷青児)
『勉強をしたる人々の履歴』(垂水史談会編)
『月刊あおやま』(1974年7月号)
▽お詫びと訂正
広報たるみず3月号の『ため池』の記事について誤りがございました。お詫びして訂正いたします。
(誤)協和地区に6か所、垂水地区に2か所、水之上地区に4か所、新城地区に4か所、計16か所のため池があります。
(正)協和地区に6か所、水之上地区に1か所、新城地区に3か所、計10か所のため池があります。