文化 町誌編さん室の島のむんがたり

■さとうきびの歴史と黒糖作りについて
徳之島を含む薩南諸島(南西諸島の北半分のエリア)で伝えられている黒糖の伝統的な製造技術が、令和6年3月21日付の官報告示を経て「薩南諸島の黒糖製造技術」として、国の登録無形民俗文化財になりました。今回の島のむんがたりでは、その歴史を辿りたいと思います。
奄美諸島における砂糖製造は、元禄初頭(元禄元年…1688年)に奄美大島の嘉和知(かわち)と三和良(みわら)が琉球に渡り、サトウキビの植え付け方法と砂糖製法を習得したという記録が、大和村の「和家(にぎけ)文書」に残っており、そのことがきっかけとなり奄美群島に広まったと見られています。
かつては、直川智(すなおかわち)が慶長年間(慶長元年…1596年)に琉球への航海中に中国へ漂着し、そこで製糖技術を習得してサトウキビの苗を持ち帰ったと記されていましたが、子孫の直嘉和誠(かわせい)による私的な伝承であるため、公的な記録としての信ぴょう性に欠ける面があるようです。
薩摩藩は、元禄8(1695)年に砂糖生産を監督する黍検者(きびけんじゃ)を奄美大島と喜界島に派遣し、正徳2(1712)年には徳之島にも砂糖買入れが命じられていることから、17世紀末から18世紀初頭にはサトウキビ栽培が始まっていたと考えられます。
そして、サトウキビを原料とする黒糖は、薬用として大変貴重で高価なものだったので、年貢を米から黒糖へと転換させていきます。そのころの薩摩藩は、徳川幕府から命令された「木曽川治水工事」などの普請で財政状況が厳しかったので、この苦境を脱する一助となりました。
さらには、黒糖を藩の財源として強化するために、砂糖惣買入れという上納制が取り入れられます。安永6(1777)年の第一次砂糖惣買入れ制度は、上納以外の残った黒糖も藩が日用品との物々交換によって、全て買い取るという制度です。薩摩藩は、このようにして手に入れた黒糖を大阪市場に持ち込んで大変な利益を上げ、藩の財政も次第に好転していきました。
天保元(1830)年には第二次砂糖惣買入れ制が実施され、第一次の時よりも格段に取り締りが厳しくなり、農民たちは大変苦労したと伝えられています。この苦しみの多い第二次砂糖惣買入れ制の時代は、明治5年までの42年間続けられました。
(郷土資料館長 遠藤 智)

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