文化 文化の泉宝物(たからむん)No.62

■終戦80年特集(1) 地上戦前の南風原のようす
南風原は、琉球王国の都であった首里、港町として栄えた那覇や与那原に隣り合う農村として発展しました。また本島南部の各地をつなぐ交通の要でもあり、戦前は「軽便(ケービン)」の愛称で親しまれた沖縄県営鉄道の路線が2路線(与那原線、糸満線)南風原の中を通過していました。
一九四四年7月7日、日本の重要拠点であるサイパン島が米軍に占領されます。それをきっかけに沖縄でも地上戦に備えて日本軍の配備が進められます。中国や日本本土から日本軍が移動してきますが、沖縄には大規模な基地が無かったため、武器を保管する場所や兵士が寝泊りする場所が足りませんでした。そこで、学校や公民館などの公共施設が軍の施設として使用されたほか、一般家庭まで兵士の宿泊所として使用されました。
家に宿泊する隊長に飲ませる酒を準備するために祖母が親戚の家をまわっていたという証言や、隊内での暴力行為をみかねた祖父が兵士をいさめた、子どもの遊び相手になってくれた兵士がいた、兵士を相手に商売をしたなど、兵士と住民の関わりがうかがえる証言は数多くあります。
また、沖縄にやってきた日本軍は「現地自活」ということで、沖縄で食料を集めました。そこで軍は役場に農作物の供出を命令し、役場は各字に割り当てを行いました。そして字では、各家庭の人数や田畑の面積に応じて割り当てを行いました。供出は月に1〜2回の割合で行われ、割り当てられた分を準備できない場合は買ってでも準備を行ったという話もあります。
そして、各字の周囲にある丘に日本軍は壕や陣地をつくり、原野や線路わきには軍需物資が置かれました。壕堀り作業の労働力として地域住民が集められ、当時9歳の女の子も壕堀り作業で出る土砂を運び出す作業を手伝ったという証言があります。
本来、軍事機密であるはずの壕や陣地の場所を住民は軍の作業に協力する中で共有してしまいました。こうした状況は沖縄各地で起きており、後に地上戦の中で日本軍が沖縄の人をスパイ容疑で殺害する事件の原因のひとつと考えられています。(保久盛)

問合せ:南風原文化センター
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