- 発行日 :
- 自治体名 : 沖縄県南風原町
- 広報紙名 : 広報はえばる 令和7年5月号
■終戦80年特集(3) 南風原での日米の戦い
1945年4月1日、沖縄島中部の西海岸から上陸した米軍は、日本軍の司令部がある首里を目指して侵攻を開始しました。
米軍の沖縄戦における目的は「日本本土攻略に向けた基地をつくること」、そして「東南アジアなど南方から日本が得た資源を日本本土に運ばせないことで戦争を続ける力を奪うこと」にありました。
米軍の猛攻に日本軍がじりじりと後退する中、5月21日には激戦地の一つである運玉森(与那原・西原)の頂上を米軍が占拠します。その後、運玉森を占拠した米軍は南風原を通り首里を攻撃することを計画しました。
一方、日本軍は首里が包囲されることを防ぐため、運玉森に近い宮城や与那覇に日本軍の部隊を急いで配備しました。南風原に配備されていた戦闘が得意ではない後方支援部隊や小禄を守備していた海軍の部隊などが集められ、5月21日頃より戦闘を開始しています。
そして米軍による首里包囲が迫る5月22日、日本軍は南部への撤退を決定します。以降、南風原は日本軍が南部へと撤退するための通り道になりました。
この時、日本軍の中でも戦闘の主力となる部隊を中心に撤退はすすめられ、後方支援部隊やすでに多くの兵士が亡くなり・負傷兵をかかえる部隊などが撤退を支援する戦闘を行っています。日本軍の目的は、一日でも長く沖縄戦を継続し、一人でも多くの米兵を殺傷することにあったため、そのような作戦がとられました。そして南風原では、6月2日頃まで戦闘が行われています。
この撤退作戦中、高津嘉山一帯に造られた司令部壕は日本軍の南部撤退の拠点になり、周辺では激しい戦闘が行われました。また、首里から撤退途中の牛島司令官らも一時立ち寄っています。
そして、日本軍と同様に多くの民間人も南風原を通過して南部へ避難しました。この時、交通量の多い橋や十字路は、米軍の攻撃が特に激しく、一日橋(那覇)・兼城十字路・山川橋は、「死の橋」・「死の十字路」とよばれました。(保久盛)
問合せ:南風原文化センター
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