文化 文化の泉宝物(たからむん)No.66

■終戦80年特集(5) 収容所からはじまった戦後
地上戦の中、捕虜となった人々は収容所に送られ、戦後の生活を始めます。しかし、4月に捕虜になる人もいれば、6月以降も暗い壕や岩陰に身をひそめた人もいます。
4月に疎開先の宜野座村で捕虜となった女性は、「島尻は戦争中だったのに私たちはこんなのんきに捕虜生活をして、その様子をどうにか島尻の人に伝えられぬものかと朝夕南の空を眺めて悲しんだ。」と心境を語っています。また、送られた収容所の場所も様々で、現在の南城市知念や沖縄市、宜野座村や名護市などが挙げられます。そして収容後も米軍の指示で収容所を転々と移る人もいれば、避難中に生き別れた家族を探して収容所を移る人もいました。
なお、収容所ごとに食料事情は異なり、米軍から食料配給(おにぎり・メリケン粉・缶詰など)はありましたが、量に差があったようです。そのため食料が足りない家族は自力で探すほかなく、「カンダバー(さつまいもの葉)を探しに行ったら、地元の人から泥棒呼ばわりされた」という証言もあります。
1945年12月、現在の与那原町大見武に南風原村民を集める収容所建設が始まります。そして、12月20〜29日までに国頭各地から南風原・大里両村の避難民2,316人を受け入れています。その後、与那原や那覇などの避難民も移動し、2月には隣接する宮城まで収容所の範囲は広げられました。最終的に約8,500人が収容されています。
収容所では、食料探しや野菜などの種苗を北部まで買いに行く「増産班」、シラミ駆除や遺骨収集などを行う「衛生班」、かやぶき屋根の家を建設する「建設班」がつくられ、復興の準備が進められました。
そして1946年1月23日には、収容所内に南風原村役所が設置され、避難民の受け入れや食料・物資の配給などを進めていきます。
ただし大見武でも食料・物資は不足していたようで、米軍のゴミ捨て場から食べ物を探したという証言のほか、米軍の倉庫から食料や物資を盗みだし、生活の足しにする人もいました。これを「戦果をあげる」と言いました。(保久盛)

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