文化 文化の泉宝物(たからむん)No.67

■終戦80年特集(6) 収容所からムラへ
1945年12月に現在の与那原町大見武につくられた収容所などでの生活を経て、1946年7月以降、3回に分けて南風原の人々は生まれ育った集落に帰ることができました。沖縄戦が始まった時期から、およそ1年以上の期間が経過していました。
しかし、やっと帰ることができた各集落は戦争で焼け野原になっており、ほぼすべての家屋が焼失していました。神里の方は、「神里に戻った時、焦土と化した字内を見渡した。神里はこんなに小さかったのかと錯覚するほど見渡す限り焼け野原であった。瞬時に戦時の記憶が蘇り、しばし呆然とたっていた。」と証言しています。
そこで人々は新たな家を建てる必要がありましたが、材料が不足していました。そのため、米軍から材料が支給されるのを待つだけでなく、集落の周囲にある壕へ入り、壕を支える柱や板を持ち出し、仮小屋を建てました。喜屋武の方によると、黄金森の陸軍病院の壕にも入り、ベッドの上の白骨化した遺体もどかして、使える材料を取ってきたとのことです。
また、いたるところに残されている戦死者の遺骨収集も進められました。町内各地で収集された遺骨は、一時、現在の慰霊祈和の塔周辺にまとめられ、後に村が建てた納骨堂に納められました。そして、那覇市織名の戦没者中央納骨所に移された後、最終的に国立戦没者墓苑に遺骨は納められています。
1946年10月12日には、大見武にあった南風原村役所が現在の南風原小学校の敷地内に移動し、本格的な南風原村の戦後復興が始まります。この日は、「南風原町民平和の日」と制定されています。
ただし、この時点で九州へと疎開をした児童たちの中にはまだ沖縄に帰ってきていない者もいました。疎開した児童の多くは、1946年の10月から11月にかけて帰ってきました。児童らは2年以上、遠い九州で家族の元を離れて暮らすことを強いられたのです。そして、南風原へ帰ってきて初めて大切な家族の生死について知るのでした。(保久盛)

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