- 発行日 :
- 自治体名 : 北海道岩見沢市
- 広報紙名 : 広報いわみざわ 2025年8月号
日本の終戦から今年で80年が経過します。戦時から現在までの間、私たちの暮らしに大きく影響を与えた出来事などを歴史資料などから振り返ります。
■第5回 食糧増産と軍馬生産を可能にした日本有数の馬産地
原生林が生い茂り、寒冷地帯であった北海道の開拓にとって、寒さに強く力のある馬は、森林の抜根(ばっこん)や生活物資の運搬、さらには畑や水田の耕作など人力では不可能な農作業に無くてはならない存在でした。加えて、農閑期の数少ない楽しみとして競馬やばん馬競走が定着し、岩見沢では明治24年から競馬が年中行事になったと伝えられています。
岩見沢は長年にわたり畜産改良増殖事業に取り組み、積極的に馬を使った農業技術が普及していたことから、稲作を中心に食糧増産に取り組む町として全国に知られるようになりました。また、栗沢では初代戸長を務めた阪井馨一(さかいけいいち)とその長男の忠(ただし)が、農民の生活を支えるために畜産を積極的に取り入れました。獣医師であり戦時下に村議会議員も務めた忠は、農耕馬と軍馬の飼育に重点を置いた畜産経営を行い、行政と農民が力を合わせて授精所や検査場、訓練場を誘致し、馬を育成するための飼育・衛生・訓練技術を農民に広めたことから、日本有数の馬産地として知られるようになりました。北村でも農場を経営していた北村黽(びん)と謹(きん)の兄弟が北海道庁より種牡馬(しゅぼば)を借り受け、その種牡馬(しゅぼば)を共用し繁殖させることで優秀な馬の生産に取り組みました。
昭和6年に満州事変が勃発すると軍馬の需要が高まり、昭和15年に馬を飼育していた3,500戸余りの農家は、合わせて1,000頭以上の馬を軍用保護馬として各地の鍛錬場に送り、在郷軍人の指導の下、1・2年をかけて軍馬として必要な鍛錬に加え、現在の地方競馬につながる鍛錬競技を実施しました。その中から軍馬として優秀と判断された馬は、国に買い上げられ戦地に送り出されましたが、ほとんどの馬は帰還できなかったため、志文町や稔町などでは新たに馬頭観世音を建てて慰霊しました。食糧増産と軍馬生産を可能にした日本有数の馬産地である岩見沢では、昭和20年9月に岩見沢神社秋季祭典奉納余興競馬が開催されるなど、競馬は戦後も戦争で憔悴しきった市民の貴重な娯楽として親しまれ、平成9年まで北海道競馬が、平成18年までばんえい競馬が続けられました。
問合先:総務課市史資料室(北村支所内)
【電話】56-2001