文化 市民編集企画 石炭と記憶を運ぶ「美唄鉄道」

美唄には、東部丘陵地の炭鉱から産出される石炭を、一手に運んだ鉄道がありました。美唄軽便鉄道として開業してから58年後に廃線となるまで、たくさんの石炭や人、荷物を運びました。その軌跡をたどってみましょう。

■美唄鉄道の移り変わり
明治39年に浅野財閥下の石狩石炭(株)が、長大な鉄道網計画を公表しましたが、国の方針により、計画通りには進まず、美唄駅から約8kmの炭運鉄道として整備を始め、工事中断など紆余(うよ)曲折を経て、大正3年に美唄軽便鉄道として開業しました。
しかし、他の町で運営していた炭鉱で、大規模な事故が発生し、補償のため炭鉱や鉄道設備の一切を売却することとなり、最終的に鉄道は、三菱が買収しました。
この頃、周辺の炭鉱が次々と整備され、運搬する石炭量が増加し、機関車も増強されました。
大正8年には、自社発注で勾配に強い機関車、“美唄鉄道2号”を導入。大正12年に三菱美唄炭鉱の竪(たて)坑が完成したことで常盤台まで鉄道が延伸され、駅を徐々に増やしました。
昭和23年には、6駅目となる東明駅が開業。希少な4110形が7両登録されている鉄道として注目されましたが、国内のエネルギー転換の波には逆らえず、昭和30年代に段階的に機関車が廃車となり、昭和40年から駅の管理が、民間委託や無人化されました。
そして、昭和47年6月1日に、美唄鉄道は廃線となりましたが、東明駅舎と美唄鉄道2号は美唄市に寄贈され、現在も保存されています。
東明駅舎と美唄鉄道2号は、令和元年5月20日に、日本遺産「本邦国策を北海道に見よ!北の産業革命炭鉄港」の構成文化財に認定され、近年の産業遺産のブームもあり、注目を集めています。

■東明駅舎
昭和23年1月14日に開業、昭和25年9月10日に駅舎が完成。昭和40年5月に民間委託、昭和45年には無人化されました。
操業当時は、駅舎内には売店があり、美唄駅に次いで、乗降客が多い駅でした。駅舎内には、時刻表や切符売り場、自動券売機などがあり、当時の雰囲気を残しています。

■美唄鉄道2号
市の指定文化財名は、「4110形式十輪連結タンク機関車2号」で、動輪が5軸10輪あり、急勾配に強い機関車です。4110形は3軸目の車輪に“ふち”が無いことが最大の特徴ですが、美唄鉄道2号は、車輪を太くしてふちを付け、レールに接触させることで粘着性を向上させていました。

美唄の炭鉱マップは本紙をご覧ください。

〔市民編集委員 三好昇・谷川毅(旧東明駅保存会)〕
令和元年、空知の“炭鉱”、室蘭の“鉄鋼”、小樽の“港”、それらをつなぐ鉄道など、かつての日本を支えた「炭鉄港」は、日本遺産として認定を受けました。令和7年に審査が行われ、無事に継続認定されました。
旧東明駅保存会では、美唄鉄道を知ってもらうために、5~10月の第1日曜日に東明駅舎を公開したり、東明駅舎と美唄鉄道2号のライトアップのほか、今年7月からはコレクションカードを自主制作しました。貴重な美唄の歴史を次の世代へ伝えるため、活動をしています。