- 発行日 :
- 自治体名 : 北海道伊達市
- 広報紙名 : 広報だて 2025年5月号
今回は、善光寺の呼び名についてご紹介します。
◆第7回 『三ヶ寺か三官寺か』
釧路公立大学 名誉教授 高嶋 弘志
幕府が建立した善光寺(有珠)、等澍院(とうじゅいん)(様似)、国泰寺(こくたいじ)(厚岸)を「三官寺」と総称することは今では定着した感があります。しかし、江戸時代の資料は全て「三ヶ寺」で、「三官寺」と称する例はありません。かつて私は、「官寺」は朝廷が管理運営する寺院を指し、幕府が建てた寺院を「官寺」とは呼ばないと書いたことがあります(『新厚岸町史』通史編第一巻)。
ではいつ誰が「三官寺」と言い始めたのでしょうか。歴史書や仏教書、観光案内書の類を片っ端から調べてみました。その結果、明治42(1909)年の吉田東伍『大日本地名辞書』が最初で、「等澍院址。……夷島(いとう)三官寺の一にして天台宗、僧円空の創(はじ)めし所といふ」という記述は、その後の観光案内書にたびたび引用されています。
昭和初期には高橋理一郎、横湯通之、竹内運平などの研究者が「三官寺」を使用していますが、まだ一般的ではありませんでした。昭和12(1937)年の『新撰北海道史』では、第一巻が「三官寺」、第二巻が「三寺(三ヶ寺)」と、執筆者によって異なっています。戦後は「三ヶ寺」「三官寺」が混在していますが、1960年代に多くの郷土史を著した須藤隆仙師がことごとく「三官寺」と記したせいか、昭和45(1970)年の『新北海道史』は「三官寺」に統一され、その後は急速に「三官寺」が普及していきます。
ちなみに伊達の歴史では、昭和24(1949)年の『伊達町史』は「三ヶ寺」、昭和47(1972)年の『新稿伊達町史』、平成6(1994)年の『伊達市史』はともに「三官寺」です。
明治以後、行政庁は総じて「官」と呼ばれるようになったため、朝廷と幕府との区別が曖昧になり、「三ヶ寺」は次第に「三官寺」に読み替えられていったのでしょう。
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