くらし 市長の手控え帖

■「『下宿』という名の大学」
大隈(おおくま)講堂から南に少し歩くと坂道がある。通称夏目坂(なつめざか)通り。この辺一帯の名主だった漱石(そうせき)の父直克(なおかつ)が名づけた。登りきると二手に分かれる。右は東京女子医大方面。左の神楽坂(かぐらざか)方面をちょっと進むと喜久井町(きくいちょう)。漱石はこの地で生まれた。新宿区喜久井町34。ここが我が下宿。3畳一間の部屋が1・2階に4つずつ。
1968年4月。下宿の一員となる。親分は伊藤一長(かずなが)さん。長崎市出身の政経学部5年生。180を超える身長。すきっとした面長の顔。7・3に整えた髪。美男だ。仕送りはなく、働きながら学んでいた。さあ歓迎会。親分の号令一下、8人が車座になる。出身は~福島県西白河郡表郷村。分からんな~エ…奥州白河の関の近くです。東北か、遠いな(エッ、長崎はなお遠いのに)。やはり訛(なま)っているな(自分も九州弁丸出しなのに)。
まず飲め。目の前にはなみなみと注(つ)がれたどんぶり酒。目をつむって一気に流しこんだ。頭はグラグラ。よし、何か歌え!深夜放送で聞いていた『ラブユー東京』を披露。その後のことは覚えていない。翌朝は人生初めての二日酔いだった。
よく酒盛りをした。マルクス、ウェーバー、丸山真男(まるやままさお)…。難しい言葉が飛びかう。当時、東大・日大紛争を契機に学生運動が燃え盛っていた。親分は「インターン制度を廃止しない東大医学部や、巨額の使途不明金を隠蔽していた日大への反発は当然。問題は、大した信念もなく騒いでいる連中だ」。苦学生の目には茶番としか映らなかったのだろう。
「俺は保守主義者だ。一挙に社会が変わることはないぞ。仏革命も頓挫した。ソ連も長くは持たないだろう」左翼的雰囲気が支配する中、超然としていた。
さらに「なあみんな、長崎原爆の悲惨さが分かるか。一瞬にして8万人の命が奪われ、今も後遺症に苦しむ人がいるんだ。何故、原爆投下の前に戦争を止めなかったのか…」。その目には涙が光っていた。「俺は政治家になる!一生貧乏だろうが『低く暮らし高く思う』だよ」
二人で銭湯の一番風呂につかった。親分は人使いがうまい。「銭湯には映画のポスターが張ってあるだろう。ここには招待券があるんだ。幸い今日の番台はオバさんじゃない。あの姉ちゃんからもらってこい」恐る恐る「あの…映画の券ってあるんですか?」集団就職で来たのだろうか。新潟出の赤い頬っぺの女性は、恥ずかし気にそっと渡してくれた。うまくいったな!親分はニヤニヤしていた。
同年12月10日、新宿行きの都電の駅に向かった。途中雨が落ちてきた。折良くタクシーがきた。ラジオから臨時ニュースが流れてきた。〝先ほど府中刑務所の前で強奪事件発生〟三億円事件だった。映画はカミュ原作の『異邦人』。人間の欺瞞(ぎまん)と不条理を描く名作との触れこみだが、半分も理解できなかった。「先輩分かりましたか」「分からん、だが感じればいいんだ!」コマ劇場近くの食堂のビールとカツカレーは、実においしかった。
親分は長崎に戻り、市議・県議を務めた。出張の折には花街へお連れ頂いた。共に県政を語りあえる嬉(うれ)しさは格別だった。満を持して市長選へ。卓越した力量でたちまち九州市長会のリーダーになる。平和祈念式典で核廃絶を訴える精悍(せいかん)な顔は、あの頃と変わっていなかった。
4期目の選挙も無風。6月には全国市長会会長就任が内定していた。平成19年4月17日、遊説を終えた直後、暴力団員に背後から撃たれた!無念の死に言葉を失った。同年7月末、私は市長になる。親分に背中を押されたように思えた。
翌年2月長崎に向かった。長崎湾を見下ろす崖の上に建つ家は、小さく質素だった。遺影に涙し、大きな人格との出会いに感謝した。外は、澄み切った空の青と海の碧(あお)が目に眩(まぶ)しかった。〝スズキ、あのなぁ…〟懐かしい声が聞こえてきた。