- 発行日 :
- 自治体名 : 福島県白河市
- 広報紙名 : 広報しらかわ 令和7年4月号
寄稿 市文化財保護審議会委員 佐川 庄司(さがわ しょうじ)
松平定信(まつだいらさだのぶ)は、徳川御三卿(ごさんきょう)の一つである田安(たやす)徳川家の七男として宝暦8年(1758)12月27日に生まれた。幼名は賢丸(まさまる)。御三卿とは、8代将軍徳川吉宗(よしむね)が将軍家と御三家の血縁関係が薄くなってきたことにより、自身の血筋をもって将軍家を継承する目的をもって創設したとされる。三男宗武(むねたけ)は田安家、四男宗尹(むねただ)は一橋(ひとつばし)家、9代将軍家重(いえしげ)の次男重好(しげよし)は清水(しみず)家を創設し、それぞれ江戸城内に屋敷があった。
田安家は、現在の日本武道館のある北の丸公園内にその屋敷地があった。江戸城内の北の丸に通じる門が田安門で、重要文化財の建造物として現存する。若き日の定信もこの門の下を行き来していたことであろう。
さて、賢丸(定信)は、田安家において将軍職を継ぐ人物として幼少期よりさまざまな帝王学を学んだ。定信の回想によれば、年に400巻の本を読破したという。すでに12歳の時に人として守るべきモラルを列記した『自教鑑(じきょうかがみ)』を著(しる)し、また、いかにして世の中を治めて庶民の生活を安らかにするかという経世済民の哲学もこの頃に身に付けていたと思われ、後に士民共楽(しみんきょうらく)を掲げた南湖公園の創出へとつながっていく。
このように才知に富んでいたことから10代将軍家治(いえはる)の後継と目されていたが、17歳の時に白河藩久松(ひさまつ)松平家へ養子となることが決まった。この背景には諸説があるが、久松松平家の家格上昇への目論(もくろみ)もあったとされている。
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