文化 【連載】昭和村の歴史と文化~第30回~

菅家 博昭(大岐)

◆私の野尻川 上平 菅家和孝さん
大雪の2025年2月、ようやくその大雪が小康状態となった25日午後に、昭和村下中津川上平の菅家和孝さん(昭和4年生、95歳)に電話をした。その後、自宅を訪ねた。
上平から南に下り、気多渕には、滝の沢、不動沢が注ぐ、野尻川がある。川向こう(左岸)に渡る橋があり、標高が446mである。この橋付近に野尻川のこの地区の水浴び場があった。川との記憶を聞くと次のように第2次世界大戦前の体験を話された。
尋常小学生(6年)になるころから夏休みは毎日、野尻川で遊んだ。そうだな9時から12時まで水遊びして家に戻って、ちゅうはん(昼飯)喰って、大きなキュウリ1本持ってまた川に行った。午後4時くらいまで川で遊んだ。毎日。高等科(2年)に入ると、家の農業の手伝いをしなければならないので、小学1年から6年生までは夏休みは毎日、水浴びだ。上級生含めて10人くらいだった。寒くなると(体が冷えると)、石の上で暖まった。石は太陽光を受けて暖かく気持ちよかった。
野尻川の対岸・新田に渡る橋は、太い樹を2本つないだ1本橋だった。その脇に水浴び場があった。2人で手ぬぐいを使ってアカハラの子、ハリミズスクイをして小魚を飲んだよ。泳ぎが上手になると言われた。水浴びの時、ライサマ(カミナリ)が出れば、カンノンサマのお堂に逃げて休んだ。橋のたもとのカンノンサマのお堂があった。
ガラス箱とヤスを使って、カジカ捕りもした。橋から、マガメ、昭和チップ工場(しらかば荘近く)前の松の木淵(ふち)までだな。
魚のアカハラはトシトリ(年末)の時に喰った。隣の家、いまはカフェ星の宿になっているが、その家の爺様がアカハラ捕ってた。カンノンサマの前の川で、6月の産卵時期に、エイショウやってな。石を組んで、タマゴイシと言っていた。午前と午後の2回、捕りに行った。
野尻川に注ぐ沢の水は、暮らしを支えた大切なものだった。飲料水にしたし、バッタリという穀類を脱穀する動力にもした。後に水車になったところもある。アワやコメを搗(つ)いた。昭和13年ころまでバッタリがあって、米搗きだと提灯明かしてヨーマ(夜)も行った。木の樋も昭和16年ころまで残っていた。隣は昭和20数年までバッタリを使っていた。

野尻川合流部の玉川右岸の大沢側に大きな水車を動力とした製材所があった。ボタ(材木)流しを引き上げて製材した。大芦の官行(かんこう)で上流の伐採が盛んにされたころ、田島の静川の人が大正14年に水車動力の製材所を創業した。それを昭和4年に、おらい(我が家)の先祖が交渉して借りて経営し、昭和5年に譲り受けて経営がはじまった。
玉川、新田地区にはゼンロクさま(小中津川束原善六氏)が創業した水力発電所があった。野尻川筋の民家の電灯だ。「水見の番人」がいた。秋に落ち葉が水路にたまって水が流れなくなって発電機が止まる。それを監視し落ち葉を除去する番人で、数名がやっていた。電灯(電力)の株(出資した)に入った人。上平では10軒のうち6軒が加盟したが、4軒はランプ(灯油)のままであった、という。
玉川発電で電灯利用していたのだが、つなぎ(松山・玉梨)に電柱がたち、新潟電力の電気が昭和村にも入ってきた。そのため、不安定な電灯の玉川水力発電所は、閉業することとなった(註)。

(註)『昭和村の歴史』(昭和村役場、1973年)151ページ。発電事業の開始・家に電燈がともる、玉川水力電気株式会社は大正12年(1923)から小野川地区を除く大芦、野尻村(合併前)全域に送電を開始とある。昭和4年、昭電社と改称、さらに昭和14年(1939)に国家統制のなかで新潟電力に合併された、とある。
居間に1灯、料金は16燭光で60銭。
※詳しくは本紙をご覧ください。