- 発行日 :
- 自治体名 : 茨城県水戸市
- 広報紙名 : 広報みと 令和7年4月1日号
江戸時代、現在の東京都文京区の地には、水戸藩主や藩士たちの多くが常住した上屋敷・中屋敷が置かれ、水戸城と並ぶ水戸藩の政治の中心地となっていました。そのため、文京区には今でも、小石川後楽園をはじめとする水戸藩ゆかりの史跡が数多く残っています。
水戸藩の歴史が結んだ、水戸市と文京区の現在に至るつながりをたどります。
■小石川後楽園
◇日本と中国の名景を融合させた美しい庭園
江戸時代初期に造られ、都内に現存する最古の大名庭園として知られています。
寛永6(1629)年、水戸藩初代藩主・徳川頼房が江戸の中屋敷として、現在の文京区の地に屋敷を構え、庭園の造成が始まりました。その後、明暦の大火を経て、この地は水戸徳川家の上屋敷となり、第二代藩主・光圀の時代に庭園が整備され、現在の小石川後楽園が完成しました。
庭園内には、池泉(ちせん)回遊式の美しい景観が広がり、特に大泉水(だいせんすい)を中心とした景観が特徴的です。また、庭園内には中国の名所を模したといわれる築山(つきやま)や石造りの堤(つつみ)が配置され、日本と中国の名景を巧みに取り入れ、融合させたデザインが施されています。
小石川後楽園は、江戸時代の水戸徳川家の歴史と文化を今に伝える貴重な遺産として、国の特別史跡及び特別名勝にも指定され、今も多くの来訪者の目を楽しませています。
所在地:東京都文京区後楽1-6-6
◇後楽園と偕楽園 名前の由来
・後楽園
中国の古典「岳陽楼記(がくようろうき)」の一節である「天下の憂(うれ)いに先んじて憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」から名付けられました。「小石川」と冠したのは、大正12(1923)年であり、岡山後楽園と区別するためでした。
・偕楽園
第九代藩主・斉昭が造成。中国の古典「孟子」の一節である「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、ゆえに能(よ)く楽しむなり」から名付けられました。領内の民と楽しみを共有する場にしたいという斉昭の願いが込められています。
■文京区と連携交流都市の提携を行います
都市間交流をより一層推進し、市民同士、民間事業者同士の幅広い連携・交流へとつなげていくため、水戸市と文京区は「連携交流都市」として提携することとしました。協定締結式は5月22日(木)を予定しています。
今後、文京区と連携して各種事業に取組むことにより、観光や教育、歴史・文化、防災など、幅広い分野で連携・交流の効果が期待できます。
■向岡記碑(むかいがおかのきひ)
◇弥生時代の語源となった貴重な文化財
第九代藩主・斉昭によって、文政11(1828)年3月11日に建立されました。桜が美しい向岡の地について記した碑文に、「夜余秘(やよい)」という文字が含まれていたことから、これが町名の由来となり、明治5(1872)年に本郷区向ケ岡弥生町が誕生しました。
明治17(1884)年には、弥生式土器の発見の舞台となり、その後、弥生時代という時代区分が確立されました。斉昭が建立した向岡記碑は、弥生時代の語源となった貴重な文化財として、文京の地で静かに佇(たたず)んでいます。
※現在、水戸藩中屋敷跡地である東京大学浅野キャンパス敷地内に設置されています。
■二つの「彰考館」
◇歴史書「大日本史」編纂(さん)の地
水戸藩が歴史書をまとめるために置いた修史局(史局)で、寛文12(1672)年、駒込藩邸から小石川藩邸に移転した際に、第二代藩主・光圀が「彰考館」と命名しました。
後年、光圀が、総裁をはじめ主要な史館員を水戸城内(現在の水戸市立第二中学校の敷地内)へ移転させ、江戸と水戸に二つの彰考館ができ、歴史書「大日本史」の編纂作業が行われました。
旧水戸彰考館跡は、平成27(2015)年に文化庁により認定された、日本遺産「近世日本の教育遺産群 学ぶ心・礼節の本源」のストーリーを構成する文化財の一つとなっています。
■文京区ってどんなまち?
人口:235,082人(うち外国人15,838人)
※令和7年3月1日現在
面積:11.31平方キロメートル(東京23区中20番目の大きさ)
特色:
・東京ドームや東京大学本郷キャンパスなどがあります
・明治時代から、夏目漱石や森鷗外、宮沢賢治などの著名な文人や学者、政治家が多く住んでいました
・六義園(りくぎえん)や小石川後楽園、小石川植物園など、歴史ある広大な日本庭園がいくつも残されています
問合せ:政策企画課
【電話】350-1580