- 発行日 :
- 自治体名 : 茨城県笠間市
- 広報紙名 : 広報かさま 令和7年4月号
■稲田大古山(おおごやま)木崎台の玉日君御本廟(たまひぎみごほんびょう)
JR水戸線稲田駅の南方三〇〇メートルほどのこんもりとした森に玉日廟(たまひびょう)があります。ここは親鸞(しんらん)の妻恵信尼(えしんに)の墓所とされています。恵信尼は長らく京都の九条関白兼実(かねざね)の娘である玉日姫と同一人物とされていましたが、今では越後介三善為教(えちごのすけみよしためのり)の娘であることがわかり別人とされています。親鸞が承元(じょうげん)元年(一二〇七)に後鳥羽上皇の念仏停止令(ねんぶつちょうじれい)に触れて、越後国に流罪に処せられた際に恵信尼は越後に同行しました。五年ほどで流罪が解かれてから、信濃善光寺に参拝し、上野国(こうずけのくに)佐貫、下野国(しもつけのくに)を経て、常陸国下妻に滞在、その後、笠間の庄司基員(しょうじもとかず)のもとに草鞋(わらじ)を脱ぎ、さらに稲田頼重(よりしげ)(宇都宮頼綱弟)の援助を受け、黒木の草庵(西念寺の辺り)に居住しました。親鸞は稲田を拠点として、常陸国北部、鹿島・鉾田方面、利根川流域、霞ケ浦流域、下野国などに他力本願、阿弥陀信仰を説いていました。元仁元年(一二二四)には、浄土真宗の経典『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著しました。
親鸞は、嘉禎元年(一二三五)頃京都に帰ったとされ、末娘覚信尼(かくしんに)が付き添いました。恵信尼は稲田草庵に残り、子育てをしながら親鸞の教えを伝え、弘長二年(一二六二)十一月、親鸞が九十歳で没した時、弟子に命じて遺骨を稲田草庵に持ち帰り、お骨堂にお守りしました。その後、恵信尼は父から譲られた越後国の荘園に子どもたちと移住しました。親鸞の没後、末娘覚信尼に手紙を送っていて、召使の少女の譲渡のことや親鸞の思い出、晩年の新潟での生活など十通の手紙が、大正年間に西本願寺倉庫から発見され話題になりました。
大正二年(一九一三)、恵信尼を信奉する大谷派婦人懇話会が西念寺の南一キロメートルほどの地に「玉日君御本廟」の石柱を建立しました。柘植(つげ)の参道を進み玉日廟の山門をくぐると参拝所があり、その奥に瑞垣(みずがき)に囲まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)が菩提樹を背に立っています。参拝所の床はきれいに磨かれ、花も飾られていて清々しい気分になります。壁には浄信筆の「恵信尼」肖像と遺書が掲げてあり、恵信尼の命日には、その遺書が奉読されています。
境内にはカシやイチョウなどの大木があり、冬は落ち葉の清掃が大変です。その掃除や樹木の剪定を長年務めてこられたのが根梨敏明(ねなしとしあき)・照子(てるこ)夫妻です。剪定は五年ほど前に亡くなられた敏明さんが担当し毎日の仕事にされていました。松の大木も三本ありましたが、松くい虫の被害により失われ、境内に「三老松の碑」が残るのみです。敏明さんは、玉日廟の見学者に、「恵信禅尼御本廟由緒記」を配り境内の案内もされていました。戦前から戦後にかけて西念寺や玉日廟の見学者が多くみられました。また、境内には、「恵信禅尼玉日子碑」があります。撰文は小栗栖香頂(おぐるすこうちょう)、書は南条文雄(なんじょうふみお)です。さらに、江戸末期の吉原の遊女の墓が三基あります。遊女の間に恵信尼講があり、恵信尼信仰が強かったものと思われます。恵信尼が女性の強い味方だったのでしょう。
恵信尼は文永五年(一二六八)九月十八日に没したとされています。新潟県上越市の米増(よねます)に恵信尼の墓所があります。稲田西念寺には、恵信尼は稲田で亡くなり、木崎台で荼毘(だび)に付され、ここに廟を作ったとの伝えもあります。稲田の地は親鸞と恵信尼とのつながりが残る貴重な土地です。これらの遺跡を大切に後世に伝えていきたいと思います。
市史研究員 南秀利(みなみひでとし)
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