- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県大田原市
- 広報紙名 : 広報おおたわら 令和7年7月号(No.1336)
■第2回 大関和、殿さまの謎の死を語る
本市(黒羽田町)出身で「明治のナイチンゲール」とも呼ばれる看護会の偉人・大関和の足跡や事績を紹介する本コーナー。今回は、和が語った大関増裕(おおぜきますひろ)の死についてご紹介します。
第1回(5月)でも少しご紹介しましたが、和が幼い頃の黒羽藩主は、藩政改革を推進し、若年寄(わかどしより)や海軍奉行(かいぐんぶぎょう)といった幕府の要職も務めた大関増裕でした。
慶応(けいおう)3年(1867)12月9日、王政復古の大号令によって幕府が廃止され、新政府が誕生しました。日本史の転換点ともいえるこの日、黒羽では増裕が急死しました。金丸八幡宮(現在の那須神社)周辺で狩りをしていたところ、銃弾が顔面を貫通し亡くなったといいます。この時、増裕は30歳、和は9歳でした。
この事件については他殺説・自殺説・暴発説がありますが、和と母・哲(てつ)は大正5年(1916)に「父から聞いたが、自殺だった」と証言しました。その内容は、大正7年(1918)に刊行された『黒羽藩戊辰戦史資料並附録(くろばねはんぼしんせんししりょうならびにふろく)』に収録されています。証言の信憑性(しんぴょうせい)については詳細な検討が必要となりますが、増裕は亡くなる前夜、家老の大関弾右衛門増虎(おおぜきだんえもんますとら)(和の父親)を呼び出し、人払いをしてから次のように伝えたといいます。
「我が黒羽藩は、率先して天皇をお守りしたい。しかし、気がかりなのが会津藩だ。会津藩は朝敵(ちょうてき)となり、黒羽藩は会津討伐軍に加えられるだろう。天皇には忠義を尽くしたいが、私(増裕)は幕府の要職にあるし、兄弟と思う会津藩を攻撃するのは忍びない。そこで『臣節(しんせつ)』(臣下として守るべき節操)を全うするため、私一人が犠牲となる。黒羽藩は、天皇に尽くして欲しい。増虎は殉死(じゅんし)などせず、私の志を全うして欲しい。」
増裕の死後、黒羽藩は新政府軍に属して白河や二本松、会津若松などを転戦し、「臣節」を全うしました。
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