文化 飯能市の史跡・文化財を訪ねる(13)

■飯能出身の天文学者 千葉歳胤(ちばとしたね)

千葉歳胤は、正徳3(1713)年、虎秀の浅見家に生まれ、通称を助之進(すけのしん)といい、陽生(ようじょう)と号しました。早くから数理や天文に興味を寄せており、20歳で江戸に出て、天文学者中根元圭(なかねげんけい)に学び、次にその一番弟子の幸田親盈(こうだちかみつ)の下で研究を続け、天文学を究めました。特に天体の運行については、精密な観測を遂げ、独特の数理によって日食、月食を割り出すことに成功しました。

この頃、日本の天文学は、洋学輸入によってにわかに活発化し、天文学の民間学者が多く輩出されました。このような中、幕府の天文方(江戸幕府が設置した天体運行および暦の研究機関)が作った宝暦13(1763)年の暦に、日食の記載のないことが大阪(当時は大坂)の民間学者から指摘され、天文方は大変慌てました。そこで、歳胤を呼んで暦学の研究をゆだね、歳胤はこれに応じて、『蝕算活法率(しょくさんかっぽうりつ)』全185巻をあらわして、これに答えました。これにより、天文方もようやく体面を取り戻すことができました。

歳胤の著書は、このほかにも数多くあり、今や日本の天文学の権威者と仰がれるようになりました。歳胤本人は名利を思うことも、官職に就くこともなく、ただ一筋に学問に徹し、晩年は郷里に帰り、寛政元(1789)年77歳の天寿を全うして亡くなりました。歳胤の墓は、奥武蔵グリーンラインから細い山道を300mほど下った屋敷跡の裏にあり、浅見家の墓が一列に並ぶその中に建っています。高さ51cm、幅23cmの小松石で、墓石正面には「寛政元酉年乾道陽生信士 三月甫六日」と刻され、左側面には「昔来し 道をしおりに行空の 何迷ふべき 雲の上とて」の辞世の句が、右側面には「天文大先生 俗名 千葉陽生平歳胤 施主淺見幸助」と記されています。
※現在、千葉歳胤の墓への立ち入りはご遠慮いただいています。

▽飯能市指定記念物
史跡 千葉歳胤墓

▽関連史跡 天文岩
奥武蔵グリーンライン沿いには、歳胤が数学、暦法、天文について独学したといわれる天文岩と呼ばれる岩窟があります。
チャートの岩礫(がんれき)で、高さ155mもmある巨岩です。隣には歳胤を祀った天文霊神の祠があります。

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