文化 郷土を知り、郷土を愛する「志木市 歴史さんぽ」-執筆・協力 志木のまち案内人の会-

■第58回 田子山富士塚シリーズ➃ 「歌舞伎役者の名前がたくさんあるのはナゼ?」
富士山の吉田口登山道には、日蓮上人が法華経を埋(うず)めたといわれている「経ヶ嶽(きょうがたけ)」という場所があります。これを模(も)して田子山富士塚の四合目に大変立派な経ヶ嶽がつくられています。中央に立つ「題目碑(だいもくひ)」には、池上本門寺の第60代貫主(かんしゅ)日運の筆による御題目が刻まれています。ここにある「玉垣(がたまき)」には、中村仲蔵(なかむらなかぞう)・尾上菊五郎(おのえきくごろう)・坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)・中村芝翫(しかん)・岩井半四郎(いわいはんしろう)といった歌舞伎役者の名前が彫り込まれています。こうした人たちの「寄附連名帳」も残されています。
玉垣が造られた明治5年(1872)頃には、大店(おおだな)の旦那衆やおかみさんたちに芝居見物が大変流行(はや)っていたようで、役者たちとの付き合いもあったからこそ寄附に応じてもらえたのでしょう。それには相当の財力がなければできません。
引又宿(ひきまたじゅく)(現在の本町1~3丁目)は陸上交通と水上交通の交差点に位置し「河岸場(かしば)」・「宿場」・「市場」のある商業地として大繁栄していたことの証拠ともいえるでしょう。引又で一番の呉服商(和泉屋(いづみや))が設置のリーダーでした。芝居見物の好きな人たちが、夕方に引又河岸(ひきまたがし)から舟に乗ると、翌朝には浅草花川戸(はなかわど)に到着したそうです。舟で出かけて行く楽しそうな姿を思い浮かべながら、田子山富士塚の歌舞伎役者名をご覧にお出かけください。